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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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10月半ば、ベギン首相は緊急の閣議を招集しました。しかし、閣議は冒頭から紛糾します。空爆に強く反対する意見が相継ぎました。

エホシュア・サギ(当時 軍情報部長官)とイツハク・ホフィ(当時 モサド長官)、二人の長官も反対でした。

エホシュア・サギ「私は工作員を送りこんで、5キロか10キロのスーツケース爆弾を仕掛ければ事足りる、と考えていました。空爆に反対した理由は、爆撃を敢行すればヨルダン、サウジアラビアを領空侵犯し、爆撃後はシリアをかすめて帰還することになります。そのようなことをすれば中東全域を巻き込むことになります。リスクが大き過ぎるのです。」

アレイ・ノアール「反対派の最右翼は(イガール)ヤディン副首相でした。国際的な批判を浴びる、と猛烈な勢いで反対したのです。副首相として責任が取れない、決行するなら辞任する、とまで言い出しました。」

シュロモ・ナクディモン「ソ連の軍事介入を招くかも知れない。我々のディモナ原発もきっと報復攻撃を受けるだろう。これまで築いて来たエジプトとの和平はこれで帳消しになる。国際社会から強い批判を受け、制裁は免れないだろう、と心配したのです。」

作戦を計画したイブリー司令官はこうした意見は間違っている、と考えていました。

デビッド・イブリー「何を馬鹿げたことを、と思っていました。イランはオシラクを爆撃したのです。イランはイラクが原爆を保有し、中東地域の支配者になることを恐れていました。この期に及んでも(まだこの事実と将来を理解できずにいる彼らを見て)作戦が実行になるかは大きな疑問でした。」

ベギン首相は会議の間終始沈黙していました。閣僚全員の賛同が作戦決行に不可欠と考えていたのです。

アレイ・ノアール「ベギン首相は会議の最後にこう言ったのです。

『作戦決定を政府案として了承させるのは困難であろう。危険でもある。しかし、もっと危険なのは決断を先延ばしにすることだ。』

そして、首相はこう付け加えました。『我々の頭の上にはいつも大きな時計の音が鳴っている。』これはアウシュビッツを書いた有名な本の一節です。強制収容所で破滅の時を刻む大時計、私は首相がこの言葉を使ったとき、彼の心が読めた、と思ったのです。ベギンはたとえどのような代償を払おうとも決行するつもりだ。第二のホロコーストを防ぐ覚悟を固めている。」

ベギン首相が結論を出さなかったのは、イスラエルを支援して来たアメリカの意向を見究めるためでした。

1977年からイスラエルに駐在し、アメリカ大使を務めたサミュエル・ルイスさん、オシラク問題でアメリカとイスラエルとのパイプ役になった外交官です。

サミュエル・ルイス「当時、CIAとモサドの間では多くの情報交換が頻繁になされていました。焦点の一つは原子炉が何時稼働するのか、についてでした。見解は両国の間で多少違っていました。イスラエルは80年の6月と考えていて、アメリカはそれよりも数ヶ月先、と予測していました。私たちは『まだ時間はある』、と繰り返していました。『原子炉が稼働したとしても原爆製造にはさらに時間がかかる、懸念は判るが焦ることは無い』と説得していたのです。」

1981年1月、ロナルド・レーガンが大統領に就任、イスラエルはアメリカの政権交代と新政権の行方を注意深く見つめていました。4月、ヘイグ国務長官がイスラエルを訪れます。ソビエトがシリアに配備したミサイル問題についてイスラエル側と協議するのが目的でした。

サミュエル・ルイス「会談の後、ベギン首相とヘイグ長官の二人だけの時間が用意されました。一般的にヘイグはイスラエルのよき友人として知られていました。だから、オシラク問題が話し合われなかった、とは思えません。後で聞いたところによると『外交で止めようとしたが、上手くいかなかった』と、告げたそうです。」

ベギン首相はオシラク原子炉の稼働を2ヵ月後の6月、と予測していました。稼働後の原子炉空爆は不可能でした。放射能を帯びた灰がイスラエルに飛来するリスクがあったからです。ベギン首相の頭の中には破滅の時を刻む時計の音が次第に大きくなっていました。

アレイ・ノアール「サダム・フセインの計画を止めるためのあらゆる外交手段はこれで尽きた、とベギン首相は受け取りました。全ての努力が徒労に帰したのであれば、最後に残されたオプションとしては軍事行動しかなかったのです。」

デビッド・イブリー「ベギンは、『アメリカは青信号を送った』、と理解しました。本当はそうでなかったのかもしれない、でも、『なんとかする』、と言ったアメリカがダメだったのならここからはイスラエルの問題、と結論したのです。」

攻撃を3日後に控えた6月4日、エジプトのサダト大統領を乗せた専用機がイスラエルに到着します。ベギン首相とサダト大統領、アメリカで和平条約を結んで以来の再会です。

サミュエル・ルイス「会談は終始良いムード、となりました。両首脳は和平を進展させていくことにとても前向きでした。その会談の後ですぐにオシラク空爆が起きたことは、結果としてサダトを苦しめることになります。サダトはベギンを理解していたし、そもそもフセインが嫌いで憎んでもいた。問題はアラブ諸国の多くの人々が『ほら見ろ、空爆前にサダトは知っていたのだ、あいつらは一蓮托生だ』、と見られてしまったことです。ベギンとの会談は奇しくもサダトを苦しめる傷となったのです。」

(続く)

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そのころ、イスラエルの情報機関モサドはヨーロッパ各地で活発に動いていました。オシラク建設に参加する企業関連部品の流通経路などを徹底的に洗い出していました。原子炉がいつかどうするかは未確認でしたが、計画が最終段階に差し掛かっていたことは明白でした。

ナフム・アドモニ「やがて我々は情報収集だけでなく、妨害工作をするようになりました。ここで詳しく申し上げるわけにはいきませんが、いくつかの作戦を実施したのです。」

1980年4月、南仏の港で事件が起きます。オシラク原子炉の部品を格納していた倉庫が爆破されたのです。イラクへの船積みの間際でした。事件後、原発に反対する仏の環境団体から犯行声明が出されました。爆破事件の一年前、アメリカ、スリーマイル島の原子力発電所では放射能漏れの重大な事故が起きていました。この事故で多くの環境保護団体が原発の危険性を訴え始めます。実は南仏の爆破事件はそうした動きを巧みに利用したモサドの工作だった、と言われています。

翌年にはパリのホテルでエジプト人物理学者がなぞの死を遂げます。イラクの核開発の中心人物でした。

ナフム・アドモニ「全ての分野で我々は激しく邪魔をしました。そして、計画の進行を数年間遅らせることに成功した、と思います。しかし、最終的に私たちはモサドやそのチームの力だけではオシラク原発の稼動をもはや阻止することは出来ない、という結論に達しました。軍事作戦の発動が必要だったのです。」

デビッド・イブリー(イスラエル空軍司令官)「作戦の立案は1978年に始まりました。私は国防相から検討を命じられました。空軍だけでなく、全ての軍が合同し、さまざまなオプションが検討されていきました。参加したのはごく一部の軍高官に限られました。最初から非常に高度の機密作戦でした。」

イブリー司令官は当初から難問を抱えていました。それは作戦に使用する戦闘機の編成でした。1970年代のこの頃、イスラエルにはアメリカ製の戦闘機が配備されていました。

デビッド・イブリー「私はファントムで検討を始めました。スタッフにはまだ攻撃目標を知らせるわけにはいかなかったので、イラク東部の空軍基地を奇襲するプランを練るように命じました。そこはソ連製ミグ22が配備されていた基地でオシラクとほぼ等距離にありました。しばらくして返ってきた答えは『もし我々が24機で奇襲したとして、目標に到達できるのはせいぜい4機、』という惨憺たる結果でした。」

イスラエルから攻撃目標のバクダッドまではおよそ1100キロ、燃料を大量に消費する重量級のファントム戦闘機では往復できない計算でした。しかし、イブリー司令官にチャンスがめぐってきます。それはこの年、中東を揺るがした大きな変革でした。

1979年、イラン-イスラム革命、親米派だったパーレビ国王は海外へ追放され、ホメイニ氏が最高指導者の地位に就きます。

デビッド・イブリー「あの時、アメリカの(ハロルド)ブラウン国防長官がイスラエルを訪れました。長官はイランのパーレビ国王に売却するはずだった最新鋭のF-16が75機ある、このF-16を買わないか、と言ったのです。私は即座にイエスと答えました。F-16なら長距離作戦が可能でした。すぐに部下を呼び計画を前進させるように命じたのです。」

イブリー司令官は4人のパイロットを選び出しました。1980年2月、パイロット達はアメリカ中西部ユタ州にあるヒル空軍基地に派遣され、訓練が始まります。
イスラエル人パイロット達が夢にまで見た最新鋭機F-16が待っていました。

ジーブ・ラズ(パイロット)「軽量で機敏、重量級のファントムに慣れたパイロットにとってはおもちゃのように感じました。」

ドゥービー・ヤッフェ(同上)「燃費はすこぶる良くて、これまでどの戦闘機も不可能だった長距離の攻撃作戦を実現していました。」

ハガイ・カッツ(同上)「コックピットは圧巻でした。継ぎ目のない大きなキャノピー、まるで空中に座っているような感じでした。」

レリック・シャフィール(同上)「F-16は戦闘機としても爆撃機としても使える器用さでした。空中戦も得意なら、爆弾も搭載できるのです。」

1980年7月、イスラエルにアメリカから8機のF-16が到着しました。アメリカ人パイロットからユタ州で訓練を受けたイスラエル人パイロットにF-16は受け渡されました。
空爆へ向けた周到な準備が進められていきました。


ドゥービー・ヤッフェ「イスラエルは小さな国です。だから、2000キロ以上の距離の飛行訓練をするためには北から南へ、南から北へ、また北から南へ何度も往復しなければなりませんでした。」

デビッド・イブリー「あの年4月、イラン革命で占拠されていたテヘランのアメリカ大使館員を救出する作戦がアメリカ軍の特殊部隊によって行なわれました。作戦の途中で砂嵐にあってヘリが墜落し、失敗に終わりました。特殊部隊による地上作戦はリスクが大きいという教訓となりました。我々は空爆作戦の実施に自信を持つようになりました。」

訓練が最終段階に入って1980年9月、中東でまた新たな戦闘が始まりました。イラン‐イラク戦争です。イラン革命の影響が自国に及ぶことを懸念したサダム・フセインの先制攻撃で始まりました。

当時オシラク原子炉の建設現場では600人あまりの仏人技術者が働いていました。

ジョバンニ・クリスピーノ(当時 フィーグ社建築技師)「戦争が始まってすぐに私たちは家族と一緒に仏に一時帰国しました。建築工事も中断となりました。状況がはっきりするまで数ヶ月、仏で待機することになったのです。」

開戦から九日後(9月30日)、イラン空軍は突如オシラク原子炉を空爆します。しかし、攻撃は失敗、施設に被害は出たものの原子炉自体は破壊されませんでした。
開戦から3ヵ月後、単身オシラクに戻ったクリスピーノさんは現場の変わりように驚きます。

ジョバンニ・クリスピーノ「私たち仏人がオシラクを離れている間に、イラクは原子炉のドームに巨大なカバーを取り付け、全てを覆い隠すようにしていました。原子炉を囲むように建設された壁の高さは40メートル以上もある巨大なものでした。」

イランがオシラク原子炉を攻撃したことで、イスラエルは対応を急がねばなりませんでした。イランからの再度の攻撃を防ぐためにイラクが原子炉周辺にソ連製の地対空ミサイルを配備して防御を固めてしまったのです。

(続く)



1977年5月、イスラエルでは保守派の労働党政権が選挙で破れ、建国以来初めて右派勢力、リクード党が政権を握りました。首相となったのはメナヘム・ベギン、かつてイギリス統治時代に反英レジスタンスを率いた強硬派として知られていました。 

アレイ・ノアール(当時 ベギン首相補佐官)「首相に就任した当時、ベギンはラビン前首相からオシラクに関する極秘報告書を渡されました。その内容を知っているのはごく一部の人間だけでした。前首相はこのとき『これまで外交努力で解決しようとしてきたが、それも限界に近づいている。』とベギンに伝えたのです。」

ベギン首相就任後から6ヵ月後(1977年11月)、エジプトのサダト大統領がイスラエルを電撃訪問しました。過去4回の中東戦争を戦ってきた宿敵エジプトとの和平への機運が高まります。翌年9月、アメリカの仲介で和平が実現(キャンプデービッド合意)、しかし、バクダッド郊外で着々と進むオシラク原子炉の姿がベギン首相の脳裏から離れることはありませんでした。

イスラエルは宿敵エジプトとの和平交渉を進めながら、イラク攻撃の準備も怠りませんでした。

ジャック・モリゼ「1978年にオシラクに関する初めての閣議が開かれ、この問題への対応が話し合われました。政治決断が必要とベギン首相は考えたのです。会議でベギンは軍に検討を命じました。今すぐに行動を起こすわけではない、近い将来何が起きても対応できるように、万全の準備を始めろ、と命じたのです。」

シュロモ・ナクディモン(当時 ベギン首相補佐官)「情報機関にも検討に入るように命じました。原子炉建設に関する進展状況、この原子炉で原爆製造は本当に可能なのか、ウランはいつイラクに搬入され、稼動するのか、モサドの副長官に特別チームの結成が命じられました。」

エルサレムにあるベギン首相記念センター、イスラエルの諜報機関モサドはアメリカのCIAに相当する組織です。諜報活動のほかに破壊工作などの極秘任務が多く、通常、関係者の証言を採ることは困難です。しかし交渉の末、このベギンセンターのアーカイブに保存された当時のモサド副長官の貴重な証言映像が入手できました。

イスラエル国民でさえ「A」という頭文字でしかその存在を知らなかったナフム・アドモニ(モサド副長官 当時)、後のモサド長官を務めたアドモニは退官後ベギンセンターの求めに応じ、内部資料という限定つきで、その半生を語っていたのです。テープの中身にオシラクについて話している部分があります。

ナフム・アドモニ「通常、首相の情報担当将校は軍情報部長官が勤めます。しかしモサドは、特に我々が直接遂行する作戦においては、独自に動く権限を首相から与えられています。オシラクのケースがそうでした。これは我々がイニシアティブを執って行なった作戦でした。ベギン首相からの命令を受けて私は、軍情報部などモサド以外の情報機関のメンバーも招集し、特別プロジェクトチームを立ち上げました。イスラエル原子力発電所のスタッフには素晴らしい科学者が揃っています。彼らは全面的に協力をしてくれました。」

1950年代後半、イスラエルは中東でいち早く原子力発電所の建設に着手します。ネゲブ砂漠にあるディモナ原子力発電所、原子炉は仏政府の全面的な協力の下に完成します。仏との関係を軸にイスラエルの核開発の陣頭指揮に当たったのがシモン・ペレス、現在のイスラエル大統領です。建国当時、まだ20代の若き外交官だったペレス氏は(デビッド)ベングリオン首相から重要な任務を与えられます。武器の調達です。

シモン・ペレス「アラブ諸国はソヴィエトから武器を供給されていましたが、国連はイスラエルへの武器禁輸措置を続けていました。私たちはどこから武器を調達できるか検討しました。イギリスやアメリカは当てにならない、仏が頼みの綱だ、という結論に達しました。WW2で多くのフランス人がナチに苦しめられたので、我々ユダヤ人に同情的だったのです。」

エジプト、シリア、イラクなど周辺をアラブ諸国で囲まれたイスラエル、建国当初から国防力の強化が国家の最優先課題でした。当時の国防費は国家予算の四割に達しています。ペレス氏が買い付けた仏製の兵器でイスラエルの軍事力は充実していきました。
深まったイスラエルと仏との関係、それはやがて核開発の分野にも及んでいきます。


1960年12月、NYタイムズはイスラエルによる核開発の疑惑を報道、多くの仏技術者が参加し、仏が原爆製造に用いた原子炉と同じサイズが供給されたと伝えました。
イスラエル政府はこれを否定、しかし仏がその後サハラ砂漠で行なった核実験には多くのイスラエル人科学者がオブザーバーとして参加していました。


シモン・ペレス「イスラエルは仏の援助がなかったら生き残れなかった、ディモナ(原発)はあくまで原子力開発の協力関係でした。仏と核兵器の契約をしたことはありません。仏はイスラエルの原発建設を支援してくれましたが、これはあくまで実験的なものだったのです。」

イスラエルの核開発に協力した仏、その仏がそれからおよそ20年後、イスラエルの敵であるイラクの原子炉建設にも手を貸すことになります。原爆を作るつもりではないかとイスラエルが警戒したオシラク原子炉、これは仏がイラクと交わした(1976年)合意書です。
原料となる核物質の供給という項目に濃縮ウランという記述があります。当初の契約ではこの濃縮ウランを合計で80キログラム、イラクに売却する事が約束されていました。


強力なサックレー原発と同じ性能のオシラク原子炉を以ってすれば仏政府が約束した濃縮ウランの量は原爆を製造するのには十分なのではないか。

仏核物理学研究所の元所長ジョルジュ・アムゼルさん、オシラクの危険性に早くから注目していた科学者です。「オシラク原子炉と核兵器拡散」と題された報告書、この中でアムゼルさんはオシラク原子炉の性能を「年間10キログラムのプルトニウムを製造するに十分」とし、「これを以ってすれば1年間に一つの原爆を作る事が出来る」と計算しました。

ジョルジュ・アムゼル「仏核エネルギー委員会とこの原子炉で原爆製造が可能かどうかを話し合いました。彼らの結論は『不可能ではないが困難』でした。ある科学者は『もし私が核兵器を手に入れたかったら、別の方法を選択する。』とまで言っていました。」

ジャック・モリゼ「我々はフセインが原爆への野望を持っていたことは感じていました。実際に彼は軽率にも、合意がなされた直後に『これが原爆保有への第一歩だ』と公言しています。もちろん仏は無条件に原発を売ったわけではありません。慎重に進めなくてはならないのは承知していました。こちらが技術者を養成し、稼動後も指導的立場を続けることでイラクをコントロールできる、と考えていたのです。」

セルジュ・ポアドヴェ(シラク首相外交顧問)「イラクが原発に興味を持ったのは、石油価格が高騰する中で、出来るだけ多くの石油を輸出に回し、外貨を稼ごうと考えていたからです。イスラエルはイラクと敵対関係にありました。自国の安全保障という点で必要以上に警戒したのでしょう。平和目的で建設された原発が、やがてそれに限らない使われ方をする、それはイスラエルの考えであり、取り越し苦労というものですよ。」

この、ポアドヴェの台詞は記憶しておいたほうが良いだろう。

(続く)



かっくるなかしまさま、ご訪問有難う御座います。
皆様、ご無沙汰しました。

ネットにつなげない場所、でもPCは触(さわ)れたので、しばらく遊んでました。そんな中、手持ちのアーカイブを見ていたら、こんなのがあった。

「オシラク・オプション(イラク原子炉攻撃の全貌)」

そんなに古くは無い、と思うが、いつごろの放送だったのだろうか、これが面白かった。なにが、かというと、登場人物の思想、発想、思考、行動があまりにも日本(特に鳩山&老人党Saloon)の現状認識と好対照なのだ。

あのNHKのことなので、怪しい思想のサブリミナルに注意しつつ見たが、それでもオイラの知識レベルでは見ごたえ十分であった。
で、映像から書き起こして、その全容を読者の皆様に、とりわけ老人党諸氏(イワオ氏等)に紹介する。多分彼らは見ないでしょうが・・・:私の所感は例によって最後にまとめます。

注目ポイントは攻撃後の各政府関係者のコメントであり、前半は攻撃の全貌紹介なので、読み飛ばして差し支えなくもありませんが、そこに至るまでの経緯を知ることも大切だと思うので、イワオ氏、そこんとこヨロシク。

それでは始まり始まり・・・結構な長さです(^^:

(プロローグ)
1981年6月20日、イスラエルの空軍基地、8機のF-16戦闘機が出撃して行きます。これは戦闘機に搭載されたカメラの映像です。高度30メートルの低空飛行です。ヨルダン、サウジアラビア、イラク国境を越えます。攻撃目標はバクダッド郊外で建設中だったオシラク原子炉。1970年代半ばイラクのサダム・フセインはフランスに接近、核開発の合意を取り付けました。イスラエルはこれを国家存亡の危機と捉えます。


イスラエル首相「原爆で全てのユダヤ人を根絶やしにするつもりなのだ。」
イスラエル諜報機関副長官「モサドは情報収集だけでなくさまざまな妨害工作も行なった。」
イスラエル空軍司令官「最後に残ったオプションが空爆作戦の実行だった。」

(ガンカメラの映像と音声)
パイロット「ああ ユーフラテス川だ・・・目標まであと少し。」

攻撃に参加した8人のパイロット達

パイロットA「これまでの準備や訓練はこの40秒のためにあった。」
パイロットB「スローモーション映像のように原子炉は粉々に吹き飛んだ。」

史上初めて行なわれた原子力施設への空爆、それは後の国際社会に大きな影響を与えていきます。

リチャード・アレン(当時レーガン大統領補佐官)「この攻撃を機に米国との戦略的同盟が構築された。」
ジョン・ボルトン(元国連大使)「これが大量破壊兵器への先制攻撃の始まりだった。米国が核拡散の脅威を深刻に捉えるきっかけとなった。」

今、中東を舞台に続く核の疑惑、オシラク空爆作戦はどのように立案され、実行されたのか、新たな資料と証言でその全貌を蘇らせます。

(これより本編)
メインタイトル「オシラク・オプション 副題 イスラエル イラク原子炉攻撃の全貌」

オシラク原子炉空爆の発端は1975年9月、イラクのサダム・フセインが仏を訪問したことに始まります。
ジャック・モリゼ(当時 駐イラク 仏大使)「彼の訪問は仏にとって極めて重要でした。我々は経済協力について大きな期待を寄せていました。あの日私はヴェルサイユ宮殿に来るようシラク首相に呼び出されたのです。シラクとフセインには共通点がいくつかありました。共に背が高く、体格がよく、外交的で、よくしゃべり、貫禄がありました。そしてエネルギーに満ち溢れていました。フセインは若くダイナミックでとてもオープンな男、という印象でした。」

当時、世界第2位の埋蔵量だったイラクの石油、植民地時代からイギリスなど国際石油資本の支配下に置かれていました。70年代初頭、イラクの実力者として頭角を現したサダム・フセインは石油の国有化を宣言、自らの権力基盤を固めました。
さらにアラブ諸国の指導的立場も目指し、反イスラエルの姿勢を強く打ち出して行きます。
巨額のオイルマネーを手に、仏を訪れた彼には大きな目的がありました。
それは当時世界でトップクラスだった仏の核開発の技術でした。


ジャック・モリゼ「あの時フセインはシラク首相との会談後、仏のいくつかの工場を見学しました。カダラッシュへも行きました。そこには仏で最も重要な原子力発電所がありました。フセインとシラクはここで二日間滞在しました。」

翌年イラクと仏は核開発の協力を正式に調印、仏はパリ郊外にあるサックレー原発と同じタイプの原子炉をイラクで建設することに合意します。
出力70メガワット、世界最高クラスの性能を誇る原子炉、エジプト神話に登場する破壊の神、「オシリス」の名称で知られたこの原子炉はイラクでは「オシラク」と呼ばれることになります。


1976年10月、バグダッド郊外で建設が始まっていきます。
イラクと仏が核開発の合意に達した当初からイスラエルはこの動きに強い危機感を抱いていました。
事態はイスラエルに一人の政治家が登場したことで大きく動きます。


(続く)

少し野暮用が続いて・・・長期空白ゴメンなさい。また頑張ります。
急にカウンターが上がっているのは、オイラがさっき過去ログを調べたから・・・(^^;

さて、オイラは前にこんなこと書いている・・・

天皇の戦争責任に反論す-20

>こうした天皇の言動に対して、後のサヨク歴史家はこう(↓)言う。

>>「近年の歴史学的な諸研究の蓄積・進展によって、天皇の実質的権限の否定、軍部・政府の天皇無視など、天皇は一種のロボットで政策決定や戦争遂行に主体的に関与しなかった、戦況を知らされていなかった、とか言った類の天皇の『実態』からする『戦争責任否定論』は少なくとも学説レベルではかなり克服された、といって良い。・・・(1)(「昭和天皇と戦争責任」 山田 朗  2008年 歴史科学協議会編 東京大学出版会)

過去ログにある(2)以降は後述する。

今思い出しながら、だんだん腹が立ってきた。「あくまの査問官」氏の言い振りは山田 朗の主張そのものではないか。あの時は優先事項があったので山田にかまっている余裕はなかったのだが・・・
当時オイラはこう(↓)も言っている。

>保留しなければならない内容をかなり多く含んでいるが、天皇のこうした言動が国家レベルでの意思発動に影響を与えていたことは事実である。あぁ、それなのに、山田は別な論文でこれと矛盾する記述をしているのだ。だが、それはまたあとで指摘することとする。今は山田の主張にいちいち関わっている余裕などないのだ。

よし、今回からこの山田 朗(≒あくまの査問官氏)の矛盾に取り掛かることにする。

山田 朗の「天皇の戦争責任」に関する主張は「大元帥・昭和天皇」(1994年 新日本出版社)と「天皇・天皇制を読む」において全く同じなので、どちらを参考にしても差し支えない。

因みに「大元帥・昭和天皇」は何かの賞をもらっているそうだが・・・なんじゃそりゃ?
彼の主張はどちらの本を読んでみても全くロクでもないが、分析するに当たっては読者に判りやすい表現の方を選択する。先ず最初に

再掲
>>「近年の歴史学的な諸研究の蓄積・進展によって、天皇の実質的権限の否定、軍部・政府の天皇無視など、天皇は一種のロボットで政策決定や戦争遂行に主体的に関与しなかった、戦況を知らされていなかった、とか言った類の天皇の『実態』からする『戦争責任否定論』は少なくとも学説レベルではかなり克服された、といって良い。(「天皇・天皇制を読む」歴史科学協議会編)中、「昭和天皇と戦争責任」の項 ・・・(1)


だってょ・・・

「天皇・天皇制を読む」の方は協同執筆であるが、その中の「昭和天皇と戦争責任」の項で彼は「天皇は一種のロボットで政策決定や戦争遂行に主体的に関与しなかった、戦況を知らされていなかった、ということはない」、と述べているのだ。しからば、同じ本の別の項において山田の述べている次(↓)の主張を何とする。

「大元帥(天皇)を支えるスタッフとして、侍従武官長、侍従武官が居り・・・この侍従武官長の役割は非常に大きく、大元帥の軍事顧問として、天皇の軍事的判断に影響を及ぼした・・・昭和天皇に仕えた侍従武官の人数は皇太子時代からの東宮侍従武官が陸軍及び海軍各々8名、天皇になってからは陸軍25名、海軍18名にのぼるが、陸軍・海軍という大組織を一人で統括する大元帥のスタッフとしては、日常的に天皇の下にいる軍人が武官長と当直の武官一人という陣容ではあまりにも貧弱なものであった。それゆえ、侍従武官は天皇を支える軍事スタッフとしては、近代戦争に対応できるものとは言えず、大元帥としての天皇に大きな負荷をかけざるを得ないシステムであった。」(「天皇・天皇制を読む」歴史科学協議会編)中、「天皇と軍隊」の項

どうだ、矛盾してやしないか?オイラは、「大元帥としての天皇に大きな負荷をかけざるを得ないシステムだった」と言う方に1000兆バルボア賭けてもいいぞ・・・(^^;

満州事変以降、陸軍も海軍も本当に都合の悪いことは上奏しなかったのだ。特に後半の海軍は質(タチ)が悪かった。こんな話が残っている。

昭和19(1946)年10月16日、神嘗祭の前日だったが、「台湾東方海上敵艦撃滅」の報告(虚報)を受けた天皇は

『お告文に今回の戦果のことを申さずして可なりや。』と尋ねたが、松平 恒雄(宮内大臣)は『その必要はない。』と奉答した。天皇は不満足だったようで、賢所への拝礼で済ますべき神嘗祭において、皇霊殿、神殿にも拝礼された。」(「小倉 庫次侍従日記」)

半藤:軍の中では「大善」「小善」という言葉がよく使われていました。「大善」と言うのは天皇陛下のお喜びを一歩前に出て先取りして既成事実を作るということ。一方の「小善」と言うのは軍人勅諭に忠実で、忠誠の志を表すということです。此れをもっとも口に乗せ、公言したのは青年将校たちです。そう言わせたのは、やはり荒木 貞夫や真崎 甚三郎らではなかったのか。この大善・小善という考え方に軍が天皇の統帥の領域を超えていく空気が満ちていると思う。(「昭和」 半藤 Vs 保坂)

また、張作霖爆殺事件を始め、軍部(官僚もそうだった)の暴走と越権行為、又は事実の一部隠蔽は戦前・戦中のどこを切り取っても、出てくるぞ。

広島に特殊爆弾が投下されたときも、御文庫に直ちに避難されるよう勧める側近に対して、「何故そのような危険があるのか、わたしは何も聞いていないぞ」と天皇が不信感を抱かれたこと、九十九里浜の本土防衛ラインが単に砂浜に掘ったタコ壺であった事など、いちいち論(あげつら)わないが、みんな承知の事実だ。

「天皇は一種のロボットで政策決定や戦争遂行に主体的に関与しなかった、戦況を知らされていなかった」

ロボット等といやな言葉で天皇陛下を貶す心算はさらさらないが、実態は軍や官僚にとって不都合な真実は伝えられることはなかった・・・そういうことだったんだよ。
こんな支離滅裂で無様(ぶざま)な論旨が書き散らされている書のどこが

「近年の歴史学的な諸研究の蓄積・進展によって・・・天皇の『実態』からする『戦争責任否定論』は少なくとも学説レベルではかなり克服された、といって良い。」

なんだ。笑わしちゃいけない。しかも「天皇・天皇制を読む」の前書きには、

「私たちは、43名にのぼる全国の研究者の協力を得て完成して本書が、現在(2008年:ス・ベ注)において『天皇・天皇制を読む』最高水準の書物であると自負している。」(前代表委員 木村 茂光)

だとよ。馬鹿と売国奴とスパイを何百人集めようが、最高水準の書物になんかなりっこない。こんなことを前書きで堂々と臆面もなく言い募れる歴史科学協議会のノー天気振りにはさすがのオイラも恐れ入谷の鬼子母神だ。

(続く)