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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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10月半ば、ベギン首相は緊急の閣議を招集しました。しかし、閣議は冒頭から紛糾します。空爆に強く反対する意見が相継ぎました。

エホシュア・サギ(当時 軍情報部長官)とイツハク・ホフィ(当時 モサド長官)、二人の長官も反対でした。

エホシュア・サギ「私は工作員を送りこんで、5キロか10キロのスーツケース爆弾を仕掛ければ事足りる、と考えていました。空爆に反対した理由は、爆撃を敢行すればヨルダン、サウジアラビアを領空侵犯し、爆撃後はシリアをかすめて帰還することになります。そのようなことをすれば中東全域を巻き込むことになります。リスクが大き過ぎるのです。」

アレイ・ノアール「反対派の最右翼は(イガール)ヤディン副首相でした。国際的な批判を浴びる、と猛烈な勢いで反対したのです。副首相として責任が取れない、決行するなら辞任する、とまで言い出しました。」

シュロモ・ナクディモン「ソ連の軍事介入を招くかも知れない。我々のディモナ原発もきっと報復攻撃を受けるだろう。これまで築いて来たエジプトとの和平はこれで帳消しになる。国際社会から強い批判を受け、制裁は免れないだろう、と心配したのです。」

作戦を計画したイブリー司令官はこうした意見は間違っている、と考えていました。

デビッド・イブリー「何を馬鹿げたことを、と思っていました。イランはオシラクを爆撃したのです。イランはイラクが原爆を保有し、中東地域の支配者になることを恐れていました。この期に及んでも(まだこの事実と将来を理解できずにいる彼らを見て)作戦が実行になるかは大きな疑問でした。」

ベギン首相は会議の間終始沈黙していました。閣僚全員の賛同が作戦決行に不可欠と考えていたのです。

アレイ・ノアール「ベギン首相は会議の最後にこう言ったのです。

『作戦決定を政府案として了承させるのは困難であろう。危険でもある。しかし、もっと危険なのは決断を先延ばしにすることだ。』

そして、首相はこう付け加えました。『我々の頭の上にはいつも大きな時計の音が鳴っている。』これはアウシュビッツを書いた有名な本の一節です。強制収容所で破滅の時を刻む大時計、私は首相がこの言葉を使ったとき、彼の心が読めた、と思ったのです。ベギンはたとえどのような代償を払おうとも決行するつもりだ。第二のホロコーストを防ぐ覚悟を固めている。」

ベギン首相が結論を出さなかったのは、イスラエルを支援して来たアメリカの意向を見究めるためでした。

1977年からイスラエルに駐在し、アメリカ大使を務めたサミュエル・ルイスさん、オシラク問題でアメリカとイスラエルとのパイプ役になった外交官です。

サミュエル・ルイス「当時、CIAとモサドの間では多くの情報交換が頻繁になされていました。焦点の一つは原子炉が何時稼働するのか、についてでした。見解は両国の間で多少違っていました。イスラエルは80年の6月と考えていて、アメリカはそれよりも数ヶ月先、と予測していました。私たちは『まだ時間はある』、と繰り返していました。『原子炉が稼働したとしても原爆製造にはさらに時間がかかる、懸念は判るが焦ることは無い』と説得していたのです。」

1981年1月、ロナルド・レーガンが大統領に就任、イスラエルはアメリカの政権交代と新政権の行方を注意深く見つめていました。4月、ヘイグ国務長官がイスラエルを訪れます。ソビエトがシリアに配備したミサイル問題についてイスラエル側と協議するのが目的でした。

サミュエル・ルイス「会談の後、ベギン首相とヘイグ長官の二人だけの時間が用意されました。一般的にヘイグはイスラエルのよき友人として知られていました。だから、オシラク問題が話し合われなかった、とは思えません。後で聞いたところによると『外交で止めようとしたが、上手くいかなかった』と、告げたそうです。」

ベギン首相はオシラク原子炉の稼働を2ヵ月後の6月、と予測していました。稼働後の原子炉空爆は不可能でした。放射能を帯びた灰がイスラエルに飛来するリスクがあったからです。ベギン首相の頭の中には破滅の時を刻む時計の音が次第に大きくなっていました。

アレイ・ノアール「サダム・フセインの計画を止めるためのあらゆる外交手段はこれで尽きた、とベギン首相は受け取りました。全ての努力が徒労に帰したのであれば、最後に残されたオプションとしては軍事行動しかなかったのです。」

デビッド・イブリー「ベギンは、『アメリカは青信号を送った』、と理解しました。本当はそうでなかったのかもしれない、でも、『なんとかする』、と言ったアメリカがダメだったのならここからはイスラエルの問題、と結論したのです。」

攻撃を3日後に控えた6月4日、エジプトのサダト大統領を乗せた専用機がイスラエルに到着します。ベギン首相とサダト大統領、アメリカで和平条約を結んで以来の再会です。

サミュエル・ルイス「会談は終始良いムード、となりました。両首脳は和平を進展させていくことにとても前向きでした。その会談の後ですぐにオシラク空爆が起きたことは、結果としてサダトを苦しめることになります。サダトはベギンを理解していたし、そもそもフセインが嫌いで憎んでもいた。問題はアラブ諸国の多くの人々が『ほら見ろ、空爆前にサダトは知っていたのだ、あいつらは一蓮托生だ』、と見られてしまったことです。ベギンとの会談は奇しくもサダトを苦しめる傷となったのです。」

(続く)

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