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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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そのころ、イスラエルの情報機関モサドはヨーロッパ各地で活発に動いていました。オシラク建設に参加する企業関連部品の流通経路などを徹底的に洗い出していました。原子炉がいつかどうするかは未確認でしたが、計画が最終段階に差し掛かっていたことは明白でした。

ナフム・アドモニ「やがて我々は情報収集だけでなく、妨害工作をするようになりました。ここで詳しく申し上げるわけにはいきませんが、いくつかの作戦を実施したのです。」

1980年4月、南仏の港で事件が起きます。オシラク原子炉の部品を格納していた倉庫が爆破されたのです。イラクへの船積みの間際でした。事件後、原発に反対する仏の環境団体から犯行声明が出されました。爆破事件の一年前、アメリカ、スリーマイル島の原子力発電所では放射能漏れの重大な事故が起きていました。この事故で多くの環境保護団体が原発の危険性を訴え始めます。実は南仏の爆破事件はそうした動きを巧みに利用したモサドの工作だった、と言われています。

翌年にはパリのホテルでエジプト人物理学者がなぞの死を遂げます。イラクの核開発の中心人物でした。

ナフム・アドモニ「全ての分野で我々は激しく邪魔をしました。そして、計画の進行を数年間遅らせることに成功した、と思います。しかし、最終的に私たちはモサドやそのチームの力だけではオシラク原発の稼動をもはや阻止することは出来ない、という結論に達しました。軍事作戦の発動が必要だったのです。」

デビッド・イブリー(イスラエル空軍司令官)「作戦の立案は1978年に始まりました。私は国防相から検討を命じられました。空軍だけでなく、全ての軍が合同し、さまざまなオプションが検討されていきました。参加したのはごく一部の軍高官に限られました。最初から非常に高度の機密作戦でした。」

イブリー司令官は当初から難問を抱えていました。それは作戦に使用する戦闘機の編成でした。1970年代のこの頃、イスラエルにはアメリカ製の戦闘機が配備されていました。

デビッド・イブリー「私はファントムで検討を始めました。スタッフにはまだ攻撃目標を知らせるわけにはいかなかったので、イラク東部の空軍基地を奇襲するプランを練るように命じました。そこはソ連製ミグ22が配備されていた基地でオシラクとほぼ等距離にありました。しばらくして返ってきた答えは『もし我々が24機で奇襲したとして、目標に到達できるのはせいぜい4機、』という惨憺たる結果でした。」

イスラエルから攻撃目標のバクダッドまではおよそ1100キロ、燃料を大量に消費する重量級のファントム戦闘機では往復できない計算でした。しかし、イブリー司令官にチャンスがめぐってきます。それはこの年、中東を揺るがした大きな変革でした。

1979年、イラン-イスラム革命、親米派だったパーレビ国王は海外へ追放され、ホメイニ氏が最高指導者の地位に就きます。

デビッド・イブリー「あの時、アメリカの(ハロルド)ブラウン国防長官がイスラエルを訪れました。長官はイランのパーレビ国王に売却するはずだった最新鋭のF-16が75機ある、このF-16を買わないか、と言ったのです。私は即座にイエスと答えました。F-16なら長距離作戦が可能でした。すぐに部下を呼び計画を前進させるように命じたのです。」

イブリー司令官は4人のパイロットを選び出しました。1980年2月、パイロット達はアメリカ中西部ユタ州にあるヒル空軍基地に派遣され、訓練が始まります。
イスラエル人パイロット達が夢にまで見た最新鋭機F-16が待っていました。

ジーブ・ラズ(パイロット)「軽量で機敏、重量級のファントムに慣れたパイロットにとってはおもちゃのように感じました。」

ドゥービー・ヤッフェ(同上)「燃費はすこぶる良くて、これまでどの戦闘機も不可能だった長距離の攻撃作戦を実現していました。」

ハガイ・カッツ(同上)「コックピットは圧巻でした。継ぎ目のない大きなキャノピー、まるで空中に座っているような感じでした。」

レリック・シャフィール(同上)「F-16は戦闘機としても爆撃機としても使える器用さでした。空中戦も得意なら、爆弾も搭載できるのです。」

1980年7月、イスラエルにアメリカから8機のF-16が到着しました。アメリカ人パイロットからユタ州で訓練を受けたイスラエル人パイロットにF-16は受け渡されました。
空爆へ向けた周到な準備が進められていきました。


ドゥービー・ヤッフェ「イスラエルは小さな国です。だから、2000キロ以上の距離の飛行訓練をするためには北から南へ、南から北へ、また北から南へ何度も往復しなければなりませんでした。」

デビッド・イブリー「あの年4月、イラン革命で占拠されていたテヘランのアメリカ大使館員を救出する作戦がアメリカ軍の特殊部隊によって行なわれました。作戦の途中で砂嵐にあってヘリが墜落し、失敗に終わりました。特殊部隊による地上作戦はリスクが大きいという教訓となりました。我々は空爆作戦の実施に自信を持つようになりました。」

訓練が最終段階に入って1980年9月、中東でまた新たな戦闘が始まりました。イラン‐イラク戦争です。イラン革命の影響が自国に及ぶことを懸念したサダム・フセインの先制攻撃で始まりました。

当時オシラク原子炉の建設現場では600人あまりの仏人技術者が働いていました。

ジョバンニ・クリスピーノ(当時 フィーグ社建築技師)「戦争が始まってすぐに私たちは家族と一緒に仏に一時帰国しました。建築工事も中断となりました。状況がはっきりするまで数ヶ月、仏で待機することになったのです。」

開戦から九日後(9月30日)、イラン空軍は突如オシラク原子炉を空爆します。しかし、攻撃は失敗、施設に被害は出たものの原子炉自体は破壊されませんでした。
開戦から3ヵ月後、単身オシラクに戻ったクリスピーノさんは現場の変わりように驚きます。

ジョバンニ・クリスピーノ「私たち仏人がオシラクを離れている間に、イラクは原子炉のドームに巨大なカバーを取り付け、全てを覆い隠すようにしていました。原子炉を囲むように建設された壁の高さは40メートル以上もある巨大なものでした。」

イランがオシラク原子炉を攻撃したことで、イスラエルは対応を急がねばなりませんでした。イランからの再度の攻撃を防ぐためにイラクが原子炉周辺にソ連製の地対空ミサイルを配備して防御を固めてしまったのです。

(続く)

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