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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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1977年5月、イスラエルでは保守派の労働党政権が選挙で破れ、建国以来初めて右派勢力、リクード党が政権を握りました。首相となったのはメナヘム・ベギン、かつてイギリス統治時代に反英レジスタンスを率いた強硬派として知られていました。 

アレイ・ノアール(当時 ベギン首相補佐官)「首相に就任した当時、ベギンはラビン前首相からオシラクに関する極秘報告書を渡されました。その内容を知っているのはごく一部の人間だけでした。前首相はこのとき『これまで外交努力で解決しようとしてきたが、それも限界に近づいている。』とベギンに伝えたのです。」

ベギン首相就任後から6ヵ月後(1977年11月)、エジプトのサダト大統領がイスラエルを電撃訪問しました。過去4回の中東戦争を戦ってきた宿敵エジプトとの和平への機運が高まります。翌年9月、アメリカの仲介で和平が実現(キャンプデービッド合意)、しかし、バクダッド郊外で着々と進むオシラク原子炉の姿がベギン首相の脳裏から離れることはありませんでした。

イスラエルは宿敵エジプトとの和平交渉を進めながら、イラク攻撃の準備も怠りませんでした。

ジャック・モリゼ「1978年にオシラクに関する初めての閣議が開かれ、この問題への対応が話し合われました。政治決断が必要とベギン首相は考えたのです。会議でベギンは軍に検討を命じました。今すぐに行動を起こすわけではない、近い将来何が起きても対応できるように、万全の準備を始めろ、と命じたのです。」

シュロモ・ナクディモン(当時 ベギン首相補佐官)「情報機関にも検討に入るように命じました。原子炉建設に関する進展状況、この原子炉で原爆製造は本当に可能なのか、ウランはいつイラクに搬入され、稼動するのか、モサドの副長官に特別チームの結成が命じられました。」

エルサレムにあるベギン首相記念センター、イスラエルの諜報機関モサドはアメリカのCIAに相当する組織です。諜報活動のほかに破壊工作などの極秘任務が多く、通常、関係者の証言を採ることは困難です。しかし交渉の末、このベギンセンターのアーカイブに保存された当時のモサド副長官の貴重な証言映像が入手できました。

イスラエル国民でさえ「A」という頭文字でしかその存在を知らなかったナフム・アドモニ(モサド副長官 当時)、後のモサド長官を務めたアドモニは退官後ベギンセンターの求めに応じ、内部資料という限定つきで、その半生を語っていたのです。テープの中身にオシラクについて話している部分があります。

ナフム・アドモニ「通常、首相の情報担当将校は軍情報部長官が勤めます。しかしモサドは、特に我々が直接遂行する作戦においては、独自に動く権限を首相から与えられています。オシラクのケースがそうでした。これは我々がイニシアティブを執って行なった作戦でした。ベギン首相からの命令を受けて私は、軍情報部などモサド以外の情報機関のメンバーも招集し、特別プロジェクトチームを立ち上げました。イスラエル原子力発電所のスタッフには素晴らしい科学者が揃っています。彼らは全面的に協力をしてくれました。」

1950年代後半、イスラエルは中東でいち早く原子力発電所の建設に着手します。ネゲブ砂漠にあるディモナ原子力発電所、原子炉は仏政府の全面的な協力の下に完成します。仏との関係を軸にイスラエルの核開発の陣頭指揮に当たったのがシモン・ペレス、現在のイスラエル大統領です。建国当時、まだ20代の若き外交官だったペレス氏は(デビッド)ベングリオン首相から重要な任務を与えられます。武器の調達です。

シモン・ペレス「アラブ諸国はソヴィエトから武器を供給されていましたが、国連はイスラエルへの武器禁輸措置を続けていました。私たちはどこから武器を調達できるか検討しました。イギリスやアメリカは当てにならない、仏が頼みの綱だ、という結論に達しました。WW2で多くのフランス人がナチに苦しめられたので、我々ユダヤ人に同情的だったのです。」

エジプト、シリア、イラクなど周辺をアラブ諸国で囲まれたイスラエル、建国当初から国防力の強化が国家の最優先課題でした。当時の国防費は国家予算の四割に達しています。ペレス氏が買い付けた仏製の兵器でイスラエルの軍事力は充実していきました。
深まったイスラエルと仏との関係、それはやがて核開発の分野にも及んでいきます。


1960年12月、NYタイムズはイスラエルによる核開発の疑惑を報道、多くの仏技術者が参加し、仏が原爆製造に用いた原子炉と同じサイズが供給されたと伝えました。
イスラエル政府はこれを否定、しかし仏がその後サハラ砂漠で行なった核実験には多くのイスラエル人科学者がオブザーバーとして参加していました。


シモン・ペレス「イスラエルは仏の援助がなかったら生き残れなかった、ディモナ(原発)はあくまで原子力開発の協力関係でした。仏と核兵器の契約をしたことはありません。仏はイスラエルの原発建設を支援してくれましたが、これはあくまで実験的なものだったのです。」

イスラエルの核開発に協力した仏、その仏がそれからおよそ20年後、イスラエルの敵であるイラクの原子炉建設にも手を貸すことになります。原爆を作るつもりではないかとイスラエルが警戒したオシラク原子炉、これは仏がイラクと交わした(1976年)合意書です。
原料となる核物質の供給という項目に濃縮ウランという記述があります。当初の契約ではこの濃縮ウランを合計で80キログラム、イラクに売却する事が約束されていました。


強力なサックレー原発と同じ性能のオシラク原子炉を以ってすれば仏政府が約束した濃縮ウランの量は原爆を製造するのには十分なのではないか。

仏核物理学研究所の元所長ジョルジュ・アムゼルさん、オシラクの危険性に早くから注目していた科学者です。「オシラク原子炉と核兵器拡散」と題された報告書、この中でアムゼルさんはオシラク原子炉の性能を「年間10キログラムのプルトニウムを製造するに十分」とし、「これを以ってすれば1年間に一つの原爆を作る事が出来る」と計算しました。

ジョルジュ・アムゼル「仏核エネルギー委員会とこの原子炉で原爆製造が可能かどうかを話し合いました。彼らの結論は『不可能ではないが困難』でした。ある科学者は『もし私が核兵器を手に入れたかったら、別の方法を選択する。』とまで言っていました。」

ジャック・モリゼ「我々はフセインが原爆への野望を持っていたことは感じていました。実際に彼は軽率にも、合意がなされた直後に『これが原爆保有への第一歩だ』と公言しています。もちろん仏は無条件に原発を売ったわけではありません。慎重に進めなくてはならないのは承知していました。こちらが技術者を養成し、稼動後も指導的立場を続けることでイラクをコントロールできる、と考えていたのです。」

セルジュ・ポアドヴェ(シラク首相外交顧問)「イラクが原発に興味を持ったのは、石油価格が高騰する中で、出来るだけ多くの石油を輸出に回し、外貨を稼ごうと考えていたからです。イスラエルはイラクと敵対関係にありました。自国の安全保障という点で必要以上に警戒したのでしょう。平和目的で建設された原発が、やがてそれに限らない使われ方をする、それはイスラエルの考えであり、取り越し苦労というものですよ。」

この、ポアドヴェの台詞は記憶しておいたほうが良いだろう。

(続く)

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