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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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御前会議において天皇の意思が「和平」であると知って、一番衝撃を受けたのは東条であったろうか。
彼は、陸軍省執務室までの廊下を「和平だっ、和平だっ、聖慮(天皇のご意思)は和平であるっ」と叫びながら進んだと言う。

ただ東条 英機という軍人は、斯(か)様に一時の感情に心を動かせはするものの、その本質は「能吏(のうり)」であった。「能吏」とは所定の目標に出来るだけ効率よく近づけていく才である。そして、それが出来ないと判ったら、目標の解釈を変えて、あたかも目標が実現されているかのように思わせる「小ずるい」才である。
目標の解釈変更ということを現代で言うならば、諫早湾干拓事業や川辺川ダム事業に代表される公共事業の大半がそれにあたる。

また、彼は「成規類従」(軍隊内の膨大な法令、法規、内規、内則集)のオーソリティでもあった。俗に「カミソリ」と言われたように、頭は良かったのである。
だから、彼と議論をして勝てる人間は石原 莞爾を別格として、居なかった。

法律、規則を実に巧みに使いこなした。例えば、あることを行う必要があるが、東条がそれをしたくない場合には彼は「それは規則にないから出来ない。」と言う一方、あることをしたいがそれが規則で出来ないときには彼は「それを出来るようにするのが運用の妙だ。」と言って実行した。

しかし、天皇のご意思が「和平」である、と判った以上、これまでのように「いけいけどんどん」と言う訳には行かない。「帝国国策遂行要領」を策定した武藤 章軍務局長と連日執務室にこもって対策を練った。武藤は御前会議から帰った後、東条に

「このままの情勢では戦争になる。天子様がこれは仕方がない、やむを得ない、とご納得のいくまで外交に力を入れなければならなくなった。」(「東条英機と天皇の時代) 保坂 正康)

と言っている。
つまり、「戦争準備はどんどん進める」が、「天皇がこれは仕方がない、やむを得ぬ、とご納得がいくまで」は「外交に力を入れていく」、という考え方である。何のことはない、やはり「戦争が主で、外交が従」なのである。この武藤軍務局長の考え方に陸相である東条は「能吏」を発揮して行く。

実際、東条は「極力」とまでは行かないまでも、「外交交渉」に対する姿勢を見せ始めていたが、統帥部からは「東条は生ぬるい」という批判が現れていた。

「大臣の態度くさし。局長にいたっては言語道断なり。」(大本営機密日誌 9月12、13日付)

武藤 章には多くの「武藤伝説」がある。彼に威圧されて将官が慌てて敬礼をしたとか、彼の上司が「私を馘首するのは彼だろう」と言ったとか、彼が歩けば自然に人が道を空けるとか、ひとにらみで飛んでる雀が落ちたとか、他愛のないものまで、数々の伝説を身にまとった男である。

武藤はフィリピンで捕虜になった後、収容所を移動しながら、次のような「命令」を下した、という。

「皆は特攻隊員となり、裁判による被害を最小限にとどめよ。日本陸軍及び日本の名誉のために現地人・捕虜の殺害命令を下した、と言ってはならぬ。」(「比島戦とその裁判」 坂 邦康)

一佐官の身でありながら、帝国陸軍で本当の意思決定者、決断者として振舞った人物であることだけは間違いない。先の田中 新一しかり、辻 正信しかり、板垣 征四郎しかり、こうした人物が他にも大勢居たことが旧軍隊の不思議で恐ろしい特徴と言えよう。

その武藤でさえも統帥部の批判を浴びていた。こういう統帥部の強硬意見に押されるように、杉山参謀長は具体的な「戦争準備」を進めていくのである。そんな杉山に、天皇は再度釘をさすことを忘れていない。9月9日、天皇は杉山からの「対南方動員」に関する上奏を受けて

「報告はわかった。動員しても対米交渉が上手くいったら、動員は中止するだろうね。」

「仰せのとおりにて結構なり。ただし、交渉がだらだら遅延し時日が延引すれば、結局冬季で北方の安全な時期を選んで南方の作戦を行うと言う基本構想は破れる次第なり。これは重大なことにて帝国は非常な困難に陥ることになる。従って交渉も適当な時期に見切りを付け、最後の決心を要するものと考えあり。」(杉山メモ)


ところが参謀本部の作戦担当者たちは御前会議の決定(???・・・していないはず)に盛り込まれていた「十月上旬」という「外交交渉」の限度を既定の事実と見なしていた。そして、9月20日の時点では「11月16日」を開戦予定日と想定し、政府(東条)に10月15日までに外交交渉の決着をつけて欲しい、と要求を出している。

杉山の奉答にある「冬季で北方の安全な時期を選んで」というのはこの「11月16日」最終的には「12月8日」という開戦予定日を想定しての言葉であった、と言っていい。

「最後の決心」とはこの開戦を意味する。しかし、杉山はそのことを天皇に伝えていない。

(続く)

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