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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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なんか、自分で過去ログを閲覧すると、そのたびにカウンターが動く、という不具合があるようだ・・・リンクを貼るのに不便でしょうがないが、どうしたらいいのか判らない・・・(^^;

続けよう。裕仁天皇と皇太后とのよろしからぬ関係はさまざまなところで取り沙汰されていた。

天皇即位の大礼は昭和3(1928)年11月であったが、翌月22日に天皇が宮城に皇太后を招き催した内宴の際には、

「(皇太后は)皇后陛下には殊に御打融けたる御談話がお有りたるも、聖上陛下には御談話なかりし趣であり、之は心配なり。」(「昭和初期の天皇と宮中 河合 弥八日記」)

昭和4(1929)年12月9日には

「午前、鈴木(貫太郎)侍従長、贈答のことにつき来訪。東御所(皇太后)と宮城(天皇)との折り合い、融和につき努(つとむ)べき旨話す。」(高松宮日記))

さらには昭和8(1933)年2月18日の日記に木戸 幸一は湯浅宮内大臣に対して「殊に大宮御所と御奥の関係につき、特に留意するよう要望」したことを書き残している。

裕仁天皇と皇太后との関係とは対照的に、秩父宮や高松宮と皇太后との関係は良好であった。彼らは赤坂の大宮御所をたびたび訪問する一方、皇太后も彼らの屋敷を頻繁に訪れた。彼らがお互いに会う機会は天皇と皇太后が会う機会よりもはるかに多くなった。

とりわけ秩父宮とは本人ばかりか裕仁天皇即位の大礼の2ヶ月前に結婚したばかりの勢津子妃とも親密な関係を保っていた。彼女は朝敵とも言うべき旧会津藩松平家の出身であったが、皇太后の名前と重なる「節子」を「勢津子」と改めての鳴り物入りの輿入れであった。

そんな中、昭和6(1931)年、秩父宮が29歳で東京の第一師団歩兵第三連隊の中隊長になると、いわゆる皇道派リーダーとなる若い安藤 輝三にシンパシーを示すようになる。

昭和7(1932)年5月28日付の奈良の日記には、

「午後2時ごろお召しにより拝謁。朝香宮、秩父宮両殿下の御話に依れば、青年将校の言動意外に過激なるやに感ぜらる。秩父宮殿下を他に転補の必要無きや陸軍大臣にも相談せよとの思し召しなり。」(奈良 武次日記)

奈良は後刻、同様な(↓)回想を再び残している。

「5月28日予に(秩父宮)殿下を歩兵第3連隊付より他に転補するやうとのご内意を洩らされたり。」(奈良 武次日記)

秩父宮が因縁の歩兵第3連隊から参謀本部作戦課付に移動になったのは、2ヶ月あまり後の昭和7(1932)年8月であり、その3年後、昭和10(1935)年に青森に飛ばされたのには天皇の確固たる意思の下、こうした背景があった。

彼が弘前の第8師団歩兵第31連隊第3大隊長として上野から弘前に向かったのは8月9日のことであったが、その3日後、相沢事件が起きた。

「相沢中佐もあれだけかたき信念を持つものを惜しきこと。」(高松宮日記)

昭和11(1936)年2月1日の第3回公判後、この裁判の行方に並々ならぬ関心を示していた皇太后のこの(↑)セリフは

当日、天皇が漏らした

「陸軍に如此(かくのごとき)珍事ありしはまことに遺憾なり。」(本庄日記)

の言葉とはまさに対照的であった。

秩父宮は事件発生の報を聞くや(知らせたのは高松宮)、27日未明に弘前を発ち、奥羽、羽越、信越、上越、高崎各線を乗り継いで、同日(27日)夕刻に上京してきた。
高松宮から「秩父宮が上京してきたんだが、どうすればよいか。」と、宮内省の意向を尋ねられた木戸は

「お見舞いのために御帰京の思し召し、ということであれば、我々としてはそれを御止め申すべき筋合いではありませんが、高松宮は東京の現在の状況は御承知のこと故、可然(しかるべき)後判断をお願いする外ないと存じます。」(木戸日記)

と答えるしかなかった。当たり前であろう、当時の東京では、

「決起将校の中の坂井 直(ただし)という中尉が『秩父宮殿下がご帰京になったので、愈々(いよいよ)我々の頭目として戴き、我々の立場は好転して、昭和維新の成功も近い。』と府民の前で演説していた。」(「雍仁親王実紀」)

だったのだから・・・
上京後直ちに参内した秩父宮はそのまま皇太后のいる大宮御所に向かっている。
皇太后の侍医であった山川 一郎は、「女官から聞いた話」とした上で、

「(皇太后が秩父宮を召され)『反乱軍の身にもなって、あまり極端な措置をせぬように』との御希望を述べられた。」(「拝命」 山川 かよ)

こうしたそれまでのいきさつを把握しながら半年後に起った2・26事件における裕仁天皇の激怒を読むと、また違う断面が見えてくるのである。このような状況ならば

「2・26事件後、弘前から急ぎ上京し、参内した秩父宮に対して天皇が大いに不機嫌であったこと、秩父宮が宮中からまっすぐ大宮御所に入り、皇太后の下にかなりの長時間留まっていたこと、天皇が『叛徒の撃滅』に異常なほど熱心であったこと。」(「昭和史発掘」 松本 清張)

に清張が注意を促している理由もうなずけるというモンだ。

(続く)

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