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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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「『昭和天皇の戦争責任を糺す:By あくまの査問官氏』に反論す」が、なかなか先に進まない、というか脱線ばかりしている。

しかし、オイラはここ(と、おでこに水平チョップ)まで出かかっている結論を書くのを我慢している。(前にも言ったかな・・・)
何故なら

天皇の戦争責任に反論す-32
>結局、裕仁天皇を語るには、母も兄弟も部下も軍隊も社会もご先祖様も、何もかもに触れなければ、あのときの日本は書けないのだ、と思う。

だからだ。まだまだ頑張らなくちゃ・・・

昭和天皇と1つ違いの秩父宮であったが、秩父宮の誕生日は母と同じ6月25日であった。
それがどうした、と言われるかも知れないが、母は次男(とその嫁)や高松宮をいたく可愛がる一方で、何故か長男(とその嫁)をすこぶる邪険にした・・・なんか関係があるんじゃないかな、と思ってなっ。

その理由が宮中改革に積極的な裕仁に対して保守的な皇太后、という対立の図式と見えなくもない。
実際、訪欧から帰国後に大変身した皇太子と、「御聡明」でありながら保守的な皇后との微妙な関係を懸念する声があった。

「皇太子殿下の御性質は、実に美なるところあり。然し御年が若き丈けに、直情径行の所あり。此事に付ては・・・皇后陛下に対しても大政摂行に関することの外は、成るべく従順にして孝道を御尽くしなさるように申し上げ置きたり。」(「倉富 勇三郎日記」)

一方それとは対照的に、「淳宮」即ち秩父宮と皇后との良好な関係がすでに各側近により取沙汰されていた。

「淳宮殿下はその辺のことにも、よほど如才なきお振る舞いなさるる様にて、例えば、皇太子殿下は、皇后陛下より何か欲する物なきやとの御尋ねがありても、何にも欲するものなしとのお答えをなされ、淳宮殿下は、左程欲しくなき物にても、是を頂き度と答へらるる様なことある趣なり。」(「倉富 勇三郎日記」)

が、本質はもっと違うところだと思う。信仰心の厚さ、薄さの問題か?うーん・・・

たしかに「神ながらの道」への信仰を深めた母が、長男の信仰心(の薄さ)に対してたびたび苦言を呈してきたことには前にも触れた。
例えば、昭和3(1928)年10月17日、裕仁天皇が執り行った神嘗祭には皇太后も出席していたが、その3日後、倉富が西園寺の言葉として次を書き残している。

「皇太后陛下敬神の念烈にて、天皇陛下の御体(態)度にご満足あらせられず。天皇陛下は、明治天皇大正天皇の御時代とは異なり、賢所の御祭典等は大概御親祭にて、自分(西園寺)等の様なることはなきも、皇太后陛下は右の如き形式的の敬神にては不可なり、真実神を敬せざれば必ず神罰あるべしと言われ居り。」(「倉富 勇三郎日記」)

祭祀というのは、ただ形式通りにお告文を読んだり、拝礼したりするだけではダメだ。心底から皇祖皇宗の存在を信じ、その前に額づいて祈ることが出来なければ「神罰」が当たる、そう言っているのだが、ならばここでオイラは改めて問いかけたい。

このような貞明皇后の信仰心、神に対するあるべき姿は我が子4人に対して、いや、少なくとも一つ違いの秩父宮に対しては平等に求められていたのか?

欧州のまったり暮らしが性にあったのか、緊急帰国して父親の死に目に立ち会おう、などということも考えず、20日も遅れて帰国したバカ息子、後でも触れるが陸軍の跳ね上がりどものお先棒を担ぐような虚(うつ)け者に比べれば、如何に裕仁天皇がご立派だったか。

しかもだ、此れを後押ししたのが他ならぬ「おふくろさん」、って言うんじゃまさに「やってらんねーよ」(By 裕仁・・・たぶん)

さらにだ。
思い出して欲しい。

(前掲)
「8回に亘って筧の進講を受けた」

貞明皇太后は昭和26(1951)年5月17日に薨去したが、大正天皇崩御に際して、皇后自身も遺言を残していたことが彼女の死後明らかとなった。その遺言には

「(皇太后が)保有する筧 克彦関連の書物、指導講義書の全てを秩父宮に残す。」

とあった。裕仁天皇は母のその遺言の意味をどう理解すればいいのか。
秩父宮はその2年後、病床のまま昭和28(1953)年1月4日に薨去したが、兄は弟をどう見送ってやればよかったのか。

秩父宮雍仁

薨去に先立ち遺書をしたためており、その中で「遺体を解剖に附すこと」、「火葬にすること」、「葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が勅許を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」と即座に許され、皇族としては異例の解剖が行われた。遺体は皇室として最低限の儀式が神道形式で行われた後、無宗教で荼毘に付された。

だとよ。
まぁ、平民ならリベラルでも自由主義でも無神論者でもなんとか主義者でも何でもいいさ、でもな、一言言っておきたいぜ。

皇室という特殊な世界に生まれた以上、己の天命を探し訊ね、全うしようとする態度は国民に対して、皇族としての、しかも明仁親王誕生までの皇位第一継承者としての責任じゃないのか、ってね。

(続く)

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