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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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摂政裕仁が母の怒りを買いつつも、最初の新嘗祭をパスした翌年、大正12(1923)年に皇后節子は久邇宮良子との結婚にも条件をつけた。4月1日の牧野の日記に次のような記述がある。

「皇后様拝謁。殿下御婚期を凡そ11月下旬に御決定、其旨公表の事を伺ふ。御異存不被為在(あらせられず)。但し新嘗祭を御親祭の後式事御挙行の事。」

久邇宮良子が皇太子の許婚として内定したのは誰でもない皇后節子の後押しによるものであり、大正7(1917)年1月17日、5年も前の話である。ところが皇后節子は「いつ頃にしましょうか」、という相談に対して、皇太子の結婚は更に8ヶ月も先の11月23日の新嘗祭を恙(つつが)無く済ませることを条件にしている。

「新嘗祭を御親祭の後」という言い方は、式の日取りの単なる回答ではない、摂政になってまだ一度も新嘗祭を主導していない皇太子に対して、皇后はこの最も重要な宮中祭祀を皇太子自身が執行してからでなければ、結婚そのものを認めない、と言うのである。この期に及んで皇太子にとって婚姻の御破算等は現実にはありえない話なのに、そこまで言うだろうか。

「やれやれ(Give Me A Break)・・・」(By 裕仁・・・多分)

こんな中、前にも述べたが、この年の9月1日(土曜日)、関東大震災が起る。

「午前11時58分44秒6 大地震。瓦が落ち始めたので、直ちに侍従武官府から御代拝路経由御座所に駆けつけた。殿下にはすでに西一の間(御座所)より中坪に出て、側近らに警護されていた。
殿下は『両陛下が東京に居られないで、大変よかったな』と仰せられた。」(「四竃 日記」四竃 孝輔侍従武官)


遅い昼食後に次々と入る情報に対して、某側近に対して彼は問うた。

「今日の地震 何処が最も被害多かるべきか。」

「東京何区は雑踏の巷ゆえ、何処何処ならん。」

「いや、何県が一番被害多かるべきやと問いしなり。」

これを傍で聞いた四竃は次のように感涙している。

「吾人の見解の狭小なりしこと、今さら汗顔のいたり。」「御着眼の尊き」(同上「四竃 日記」)

摂政裕仁は集まった情報の聞き取りのみに留まらず、震災の悲惨さを自らも乗馬にて視察、確認した。その結果、9月16日、牧野宮内大臣を呼び

「今回稀有の大震大火に付き、予は親しく帝都並びに近県の災害実況を見聞し、傷心益々深し。就いては今秋挙行予定の結婚式はこの際これを行うにしのびず。宜しく延期すべき。」(「牧野 日記」)

牧野は「感激恐懼」して、大正天皇と皇后節子の滞在する日光御用邸に向かい、結婚延期決定と翌年1月下旬から2月初旬の間に挙式する旨を伝えた。

また、震災に伴い毎年11月に行われてきた陸軍特別大演習と、それの伴う地方視察も中止となったため、スケジュール上の心配も無くなった。
11月に入り、皇太子が練習を重ねていた様子は牧野の10日の日記から伺える。

「入江侍従長 官房へ入来。新嘗祭の御予習に関する件に付、内報あり。最近被為行(おこなわせられ)たる節は万事御都合好く済ませられたる由にて大いに安心せり。来る20日今一回御予習の筈なり。」

23日、摂政裕仁は初めて神喜殿で新嘗祭を執り行なった。

「11月23日、殿下の御大役たる新嘗祭を予め御習礼の上、始めて御親祭遊ばさる、此親祭は代理を以ってする能(あた)はざること故、天皇陛下御差し支えの場合は御取り止めとなるなり。」(「奈良 武次日記・回顧録」)

記者上がりの原は皇后節子がこの時に詠んだ和歌「ねやの戸の ひまもる風の つめたさに あかつきおきの たへがたきころ」を引き合いに出して「皇太子の身を案じたもの」とし、

「練習の成果が出たのか、皇后の思いが通じたのか、皇太子は新嘗祭を無事に終える事ができた。」(「昭和天皇」 原 武史)

などと言っているが、バカ、練習の成果に決まっているだろが。コイツは裕仁天皇をボロカスに貶す一方で、ツマらん所であらぬ人物(皇后節子とか秩父宮とか高松宮とか)を持ち上げる変な癖がある。訳が判らん。

また、新嘗祭の完遂もさることながら、年も押し迫った12月27日、帝国議会の開院式出席の車列を待つ人垣の中から飛び出した犯人から銃撃され、彼を逸れた弾で入江侍従長が負傷、という虎の門事件が起きた。

こうした重鎮の暗殺や死去、大災害、本人へのテロなど、さまざまな試練を経て、摂政裕仁は大正13(1924)年1月26日、ようやく久邇宮良子と結婚した。

だが、大正天皇の病状は、摂政裕仁の誕生に呼応する如く一段と悪化し、摂政に政務を任せ、自分自身は冬は沼津、夏は日光と転地療養に努めるも、症状は一向に改善しなかった。
やがて病状の公式発表が頻繁となって来、裕仁がめでたく婚儀を終えた頃から脳貧血の発作が増え、大正14(1925)年12月には強度の発作を起こし、以来皇居で静養することになった。

体調不十分なまま大正15(1926)年8月に葉山へ転地療養したが、脳貧血発作は頻発し、風邪、気管支カタルを併発、侍医らは全力を尽くしたがその甲斐なく、12月24日深夜危篤、日付が変わった25日ついに崩御した。

そんな中、秩父宮は何をしていたのか。

(続く)

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