忍者ブログ

御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

カレンダー
04 2017/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[11/13 canon eos 600d kit]
[03/04 かっくるなかしま]
[11/19 tomyk]
[11/04 tomyk]
[07/30 検察OB]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
ステディ ベア
性別:
男性
職業:
世間観察業
趣味:
JAZZ 演歌 讃美歌
バーコード
ブログ内検索
カウンター
お天気情報
Script:Ninja Blog 
Design by:タイムカプセル
忍者ブログ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

(前掲)
この大正11(1922)年という年は神功(じんぐう)皇后以来と言われた皇后節子(さだこ)の九州訪問と同じ時期であるが、摂政になった皇太子が植民地を含む地方視察を本格的に始めた年でもあり、大正天皇が崩御するまでの5年間に彼は全ての都道府県と台湾、樺太を訪れている。


繰り返しになるが、度重なる地方視察の主目的は摂政になってからの裕仁皇太子の関心が「英国仕込みの『国家と国民との理想的な関係』に対する自らの思いを実践させようとするもの」であった。

だから、大正天皇や彼に常に同伴していたかつての皇后節子のように、理由なく宮中祭祀を欠席することはなかったが、地方視察とスケジュールが重なった場合には、祭祀に代理の者を充て、地方視察を優先させた。そんな中、

(前掲)
「殿下は御外遊の影響も少なからざるべく、周囲の空気も預かるならんか、時勢の傾向には御動かされ遊ばされ諸事進歩的に御在しまし、少しく極端に御奔り易き御意向伺はる。然るに、皇后様は御女性としては実に御聡明に渉らせらるる事は畏れながら毎々直接拝する事なるが、総てお考えは伝統的に入らせらるるを以って、御親子の間、将来ご調和の持続せらるる事は実に必要事なれば今後十分ご注意を申上ぐる事を怠らざるよう心懸ける決心なり。」(「牧野 伸顕日記」)


牧野のその危惧はやがて的中する。

大正11(1922)年11月23日は新嘗祭の日である。
一年前の新嘗祭のときには帰国直後の裕仁は出席することはしていたが、それは摂政になる2日前のまだ皇太子としてであり、当時儀式を執り行ったのは掌典長であった。
今回の新嘗祭は摂政裕仁として初めて自らが行わなければならない大事な機会であった。

その年の9月22日、牧野は皇后と面会し、新嘗祭については地方視察とぶつかるため、「御代祭を願ふ外致し方なき旨」を言上した。
すると皇后は「御肯諾(ごこうだく)」しながらも牧野に向かって皇太子に対する怒りを爆発させた。

「殿下には御正座御出来ならざるに付き御親祭は事実上不可能なり、今後は是非御練習の上、正座に御堪へ相成様致度(あいなるよういたしたく)、昨年来殊に此種の御務め事に御怠慢の御様子あり、今後は何とか自発的に御心懸け相成様致度し、夫(そ)れも御形式になく御心より御務めなさるゝ様御自覚被為度(なされたく)望み居る旨御仰せあり。」(「牧野 伸顕日記」)

牧野は恐懼して下がる外なかった。
皇后節子を激怒させたほどの「御正座」とは一体なんなのか。

新嘗祭

宮中三殿で行われる祭祀は新嘗祭だけではなく、今も大小合わせると三十回前後/年の宮中祭祀が行われているが、この新嘗祭は、歴史的に最古・最重要な大祭であり、日本人のルーツでもある。
もちろん日本人の顔をして日本語を一応しゃべってはいるが、根性がまっかっかで実は日本人じゃない人にとっては邪悪なものに過ぎないが・・・また脱線・・・(^^;

殆どの国民が毎日の生活に追われ、神とか仏といった信仰については、葬式と初詣での時ぐらいしか真剣に向かい合っていない現世にあって、深々(しんしん)と冷え込む中で、二時間強の儀式を宵と深夜の二回執り行い、その間は板張りに正座したまま、ひたすら祈り続ける、という苛酷な内容である。

昭和4(1929)年の新嘗祭に初めて出席した宮内省式部次長の岡部 長景は「暁の儀」について

「二時間の静(正)座は足痛を感ずること甚だしく、しびれやら眠気等は起らなかった。」(「岡部 長景日記」 尚友倶楽部編)

と残している。
また、天皇の御高齢に鑑み、祭祀の負担を減らすため、昭和45(1970)年以降、「暁の儀」を掌典長に代拝させる様になったが、それでも天皇は

「新嘗祭が近づくとテレビをご覧になられていられるときでもあえて正座のご練習をなされていた。」(「入江 相政日記」)

結局、摂政裕仁は地方視察を優先して大正11(1922)年の新嘗祭を欠席したが、優先させたのは視察ばかりではなかった。
摂政になってからの2年間、ゴルフをする皇太子の姿が写真入りでしばしば報道されており、ゴルフの他にも、野球、乗馬、テニス、ビリヤード、水泳に熱心な皇太子が描かれている。

「そこには、君主制の世界史的危機の中で、例外的に存続を保ったイギリス王室を模倣しようとする皇太子の強い意志が働いていた。」(「権力装置としてのスポーツ」 坂上 康博)

皇后節子はそれまでよほど腹に据えかねていたのだろう、9月22日の爆発ついでにこう(↓)した事にも苦言を呈した。

「此の節は御運動に非常にご熱心なり、余り御過ぎてはいかゞと思ふ、却って少し静思御修養の方に御心を御用い被相成度(あいなりた)し、只今の処運動専心にて其の為御弱点の神経性に御差障り無きを案じ居れり。」(「牧野 伸顕日記」)

洋行に反対をしたのは、皇太子の身を案じての母心のはずであったのに、洋行から戻った皇太子の成長振りを母は素直に喜んでいない。もともと、彼女は素直な性格とは程遠かったのである。

牧野は皇太子に対して「少しく極端に御奔り易きご意向」を見たが、牧野の日記に描かれた節子皇后の姿にも激しい様子が見て取れる。
大正天皇に使えた高等女官の坂東 登女子は、貞明皇后について「賢いお方さん」としながらも、

「一時はちょっとご機嫌が悪うてちょっとあのヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。」(「椿の局の記」 山口 幸洋)

皇后節子の「ヒネクレ根性」は裕仁にとり、以後まことに厄介な確執となる。

(続く)

PR

Post your Comment
Name
Title
E-mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
Trackback URL