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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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さて、帰国後の皇太子の革新的な変化に対し、牧野は次のように書き残している。

「殿下は御外遊の影響も少なからざるべく、周囲の空気も預かるならんか、時勢の傾向には御動かされ遊ばされ諸事進歩的に御在しまし、少しく極端に御奔り易き御意向伺はる。然るに、皇后様は御女性としては実に御聡明に渉らせらるる事は畏れながら毎々直接拝する事なるが、総てお考えは伝統的に入らせらるるを以って、御親子の間、将来ご調和の持続せらるる事は実に必要事なれば今後十分ご注意を申上ぐる事を怠らざるよう心懸ける決心なり。」(「牧野 伸顕日記」)

この大正11(1922)年という年は神功(じんぐう)皇后以来と言われた皇后節子(さだこ)の九州訪問と同じ時期であるが、摂政になった皇太子が植民地を含む地方視察を本格的に始めた年でもあり、大正天皇が崩御するまでの5年間に彼は全ての都道府県と台湾、樺太を訪れている。

それは殆ど口をきかなかった従来のような地方視察ではなく、前述した英国仕込みの「国家と国民との理想的な関係」に対する自らの思いを実践させようとするものであったが、同時にそれは

「元老たちが目論んだ『君民一体の空間』の創出、すなわち『国体』の視覚化という演出も図られていた。」(「昭和天皇」 原 武史)

とも指摘されている。

「国体」の視覚化、その嚆矢は何といっても帰国5日後に行われた東京市主催(市長 後藤 新平発案)の「市民奉祝会」で日比谷公園に集まった約3万4千人の市民を前に音吐朗々と読み上げた皇太子の令旨(りょうじ:命令を伝える文書)である。

「予が前日帰朝の際は、東京市民の熱烈なる歓迎の中に帝都に入り、欣喜に堪へざりしが、今特に斯の場を設けて、盛大なる祝賀会を受くるは、予の満足するところなり・・・東京市は今まさに都市施設の改善を講究すと聞く。予は切に好成績を得て、市民の幸福と帝都の殷盛(いんせい)とを増進せむことを望む。」(「後藤 新平」 鶴見 祐輔)

これを受けて当時助役で後の東京市市長となる永田 秀次郎は感激している。

「9月3日以後の我皇室は我々のものである。決して貴族のものでもなく、軍閥のものでもなく、官僚のものでもなく、直接に我々七千万同胞のものである。わが親愛なる皇太子殿下は実に直接に我々のものである。殿下が外遊の前後における御態度と今回の御令旨とは真に我々国民をして斯くの如くに感ぜしめなくては叶わぬ様に仕向けられたものである。斯くの如くにして我が国体の精華は我々民族の脳中に光風霽月(こうふうせいげつ)の如くに晴朗なるものとなった。」(「平易なる皇室論」 敬文館)

ところが、これに対して原は

「『9月3日以後のわが皇室』が『我々のもの』になった背景には皇太子が実地に学んだ英国の君主制からの影響が見られたはずであった。にも拘らずここには、外国からの影響を受けたはずのものが『わが国体の精華』に結び付けられ、日本固有のもののように見えてしまう錯覚が生じている。
大正天皇の病気を契機とする上からの天皇像の転換に呼応する形で新しい下からのナショナリズム、いわゆる超国家主義がここに発生するのである。」(昭和天皇」 原 武史)


と論述する。

しかし、よしんば超国家主義がこのときに誕生したとしても、その責任は皇太子にはなかろう。皇太子への国民の熱狂、そのカリスマ性を軍閥たちが軍国主義へ利用した、と見るほうが自然だ。
裕仁がまだ天皇には成っていないこの段階で、少し先走るようだが、丸山 真男は天皇について次のようなことを書いている。

「天皇自身も実は皇祖神に対しては『まつる』という奉仕=献上関係に立つので、上から下まで『政事(まつりごと)』が同方向的に上昇する型を示し、絶対的始点(最高統治者)としての『主(ヘル)』は厳密に言えば存在の余地はありません。」(「現代思想」中「政事の思想」)

あの変節漢の言うことだから眉唾も多かろうが、これにはうなずける。
裕仁天皇はずっと祭祀王であった。「現人神である」・・・そう仕向けたのはそうしたほうが都合がよかった軍部に他ならない。もちろん元老も自分たちの政権維持のために時にはそれを容認した。
裕仁が責任意識を持っておられたその対象は戦前・戦中は少しの紛れもなく「皇祖神」に対してであり、戦後はプラス「英霊」に対してだった。教育の成果である。そしてそれは些かも間違っていない。

さて、ここで声が聞こえてきそうだ。

「おい、それは皇国史観だろう。」「お前は皇国史観論者か。」

皇国史観・・・だろうか。
敗戦によって皇国史観が否定されたのは仕方ないが、天皇と神の関係を記述することは皇国史観ではない、と思う。王権が神とつながりがあることは歴史上の常識だ。

古代エジプトの王ファラオは、神の子として民衆の前に君臨した。
古代メソポタミアの王ハムラビは、神から授かったものとしてハムラビ法典を制定する。
キリスト教の教祖イエスも神の子として崇められたし、イスラム教の教祖ムハンマドも神の言葉を預かる預言者として、イスラム国家を樹立した。

それらのことはすべて高校の教科書に書かれている。ところが日本の天皇だけは神との関係が書かれていない。世界史の教科書にはそのことが折に触れて書かれてあるのに、日本史にはそのことの記述がない、それが日本史を余計に混乱させていると思うし、だから沈黙の初夏氏やBadBloke氏のような気の毒な人物が生まれてくるのだ、と思うのである。

脱線しすぎた。話を元に戻そう。

(続く)

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