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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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(前掲)
皇后節子は皇太子不在の半年間、大正天皇が祭祀の履行困難な中、宮中祭祀を女官に代行させず、単独で積極的に実行してきた。この間にそれまで「創られた伝統」とみなしていた宮中祭祀への考え方がはっきりと変わっていたのである。


皇后節子(さだこ)は天皇の病気や、名代としての負担増などを理由に皇太子の訪欧には反対の立場をとっていたが、最後には

「結局政事(まつりごと)上必要とあれば、政治上のことは干渉せざる積りなり。」(「原 敬日記」)

として折れ、皇太子の出発後、その月のうちに

「安芸の厳島神社を参拝し、心を込めて皇太子の一路平安を祈り、神助を求めた。」(「貞明皇后」 早川 卓郎)

その後、葉山で静養中の大正天皇を置いたまま東京に戻り、4月3日の神武天皇祭、4月11日の昭憲皇太后例祭に出席、以後も、単独で祭祀に出席するようになるが、皇太子の訪欧を機に、それまで『作られた伝統』と見なしていたはずの宮中祭祀に積極的に関わるようになったことは、天皇とともにずっと御用邸に滞在する従来のスタイル(天皇の戦争責任に反論す-21)の変更を意味していた。

節子は裕仁が摂政となり、事実上の天皇としての存在となると、信仰の途を一段と深めていく。
彼女は大正11(1922)年3月、大正天皇の平癒祈願の為、香椎宮、筥崎宮、大宰府神社(現・天満宮)、厳島神社などを参拝したが、皇后の九州訪問は神功(じんぐう)皇后以来の画期的なことであった。

「『香椎宮を拝(お)ろがみて』という題が付された皇后の和歌『大みたま 吾が身に下り 宿りまし 尽くすまことを おしひろめませ』には、神功皇后との神秘的な一体化を願う皇后の心境が反映している。」(「大正の皇后宮御歌謹釋」 筧 克彦)

少し先走るが、後に皇后はこの筧 克彦の影響を強く受ける。そして皇后の影響は裕仁の経戦意思に微妙に関わってくるのである。
この神功(じんぐう)皇后とは節子にとってどういう存在だったのだろうか。

「神功皇后は『日本書(紀)』では伝説上、『気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)』と記され、『卑弥呼』に当たるとされる人物であるが、『日本書(紀)』では神功皇后の夫である仲哀天皇は『神の言(みこと)を用ゐ給わずして早く崩(かむあが)りましゐぬ。』とされた。未亡人となった神功皇后は『天皇(すめらみこと)の神の教(みこと)に従わずして早く崩りたまひしことを傷みたまひ』、『罪を解(はら)へ過ちを改め』ようとした。」(「日本書(紀)」 岩波文庫)

なるほど、それならば次(↓)の推論は説得力を持つ。

「節子は神功皇后をフィクションとは思っていない。それどころか、自らを神功皇后に重ね合わせる節子の脳裏には、『神の教』に従わなかったがために急死した仲哀天皇と、祭祀をおろそかにしたがために脳病に冒された(と信じた)大正天皇とが二重写しになっていたのではなかろうか。」(「昭和天皇」 原 武史)

特に神功皇后を祀る香椎宮を春季皇霊祭に当たる3月21日に参拝したことには節子に深い印象を与えたものと思われる。

ところで、皇后節子(さだこ)は、五摂家の九条 道孝の四女となっているが、野間いく(侍女)から生まれてすぐに豪農へ里子に出され、農家の主婦による養育を受けたことから、公家出身の令嬢でありながら、活発かつ自己抑制の利く性格に育った。

「天皇の戦争責任に反論す-29」にも触れたが、「女」であることを意識して、政治(まつりごと)においては一応大正天皇や摂政皇太子を立ててはいたが、宮中制度やしきたりなどでは譲ることなかった。

天皇となった後の裕仁でさえも一歩下がっていたほどである。このエピソードは後に書く。
戦後もまだ宮中の実権を握り、側近などに対しては厳しい態度で臨んだ。
裕仁天皇と貞明皇后との確執の姿を示すのに裕仁本人だけに注目するのは不十分である。

たとえば、久邇宮良子(ながこ)を皇太子妃として最初に決定したのは他ならぬ皇后節子自身であったにもかかわらず、その後態度が一変する。
理由は、宮中某重大事件で長州閥の駆逐に成功した久邇宮家がその勢いを駆って外戚として宮中に関わりを持とうとしたからで、介入の動きを察知して以来、彼女は態度を硬化させた。

「節子皇后は『久邇宮様がご自分様が勝ったという御態度では宜しからず、皇太子様が御立前(洋行)に御告別の為御対顔なされたいと言ふ事もあった。未だ表向きの発表、お約束にもなって居らぬのに穏やかでないと思ふ、未だ真の御内約であるからお取り消しになれぬ分けでもない。』と、元宮内大臣の波多野 敬直に語った。」(「闘う皇族」 浅見 雅男)

大正10(1921)年5月ごろ、皇太子洋行中の発言である。

以後、皇后節子が秩父宮妃勢津子に比して、皇太子妃良子には何かと厳しかった話もそのうち書く。
結局、裕仁天皇を語るには、母も兄弟も部下も軍隊も社会もご先祖様も、何もかもに触れなければ、あのときの日本は書けないのだ、と思う。
だけど、あまり広がりすぎちゃったかなぁ・・・もしかしたら書かないかも知れない・・・(^^;

(続く)

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