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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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皇后節子(たかこ)の宮中内での実力と政(まつりごと)への影響力については次第に判ってきたが、彼女の力はまだまだこんなモンじゃないのだ・・・

「おい、それはそれとしてだ、肝心の『秩父宮の話』はあれから一体どこに行ったんだ?」
「それに、も少し、真面目に取り組んだらどうなんだ?ちょっと間隔が開き過ぎだぞ。」

あ、はい、いつもつい脱線してしまいまして、すみません。
間もなく母と次男坊が同時に登場いたしますので。もうちょっとお待ちください。
さらに頑張って前に進むことにします。

裕仁皇太子は大正10(1921)年9月3日に横浜港に帰着、半年間の欧州視察を終えた。
ここで詳しくは述べないが、多くの文献によって明らかなのは、この半年間での自他共に(反天皇の歴史家たちさえも)認める劇的な成長、変貌ぶりである。
東宮武官長として同行した奈良は帰国後にこう書き留めている。

「理性の富ませらる殿下は皇室の祖先が真に神であり、現在の天皇が現人神であるとは信ぜられざる如く、国体は国体として現状を維持すべきも、天皇が神として国民と全く遊離し居ることは過ぎたる事と考え居らるるが如く、皇室は英国の皇室の程度にて、国家国民との関係は君臨すれども統治せずという程度を可とすとのご感想を漏らさるるを拝したることあり。」(侍従武官長 奈良 武次日記・回顧録)

皇太子は、帰国直後の「国家・国民との関係」に対する自らの思いが、「英国の皇室」から影響を受けていることを明確に自覚していた。それは、皇太子が最も影響を受けた、と思われるスコットランド、パースにあったアソール公邸(ブレア城)の訪問体験から来ている。

が、彼は少し誤解をしていたのではないか。確かに「ざっくばらんに地域住民と交流している」ように見えたアソール公ではあったが、アソール家は数百年に亘り継承されている慣習的な利害関係や情実など、封建領主としての支配権が確立していたのであり、言い換えれば「主従」双方の要求が安定していたため生まれていた状況であった。

裕仁皇太子が自らを「カゴの鳥」と揶揄し、それまで国民との具体的な距離感を感じられずにいたその「閉塞感」とは、維新後こそ天皇家の財産や官僚制度は育成されたが、維新前は確たる固有の土地や人民を持たない天皇家の末裔であることにあったのではないか。

維新以後わずか三代ではアソール公のような数百年の封建領主に匹敵する主従関係を確立できるはずもなく、ましてや明治天皇や大正天皇が「創られたもの」として軽視していた斯様(かよう)な伝統であって、しかもそれを直接認識しにくい君主であるが故の「空白感」であったと思われる。

しかし、裕仁皇太子は欧州訪問を経て近代の皇室観に目覚めたとは言うものの、杉浦 重剛や白鳥庫吉らから教育された倫理観と国史観はいささかも揺らいではいなかった。
帰国翌日(9月4日)には賢所を訪れ皇祖皇宗に対して報告をしているし、23日の秋季皇霊祭、10月17日の神嘗祭、11月23日の新嘗祭と続けて重要な宮中祭祀に出席しているのだ。

新嘗祭の2日後、11月25日、皇室典範と摂政令の定めるところに従い、皇族会議と枢密顧問会議を経て、皇太子は摂政に就任した。皇太子は政務や軍務については天皇と全く同じ権能を有することとなり、事実上の天皇となった。宮中祭祀についても皇室祭祀令の規定に準拠しつつ、大祭については掌典長や侍従ではなく、皇太子自らが行い、お告文も読み上げられるようになった。

劇的な変貌を遂げた彼は、摂政就任後、自らの体験から得た新感覚を以って、宮中近代化に着手するが、外遊から帰国後の彼の身辺には実にさまざまな事件が起り、政情は慌ただしかった。

元老たちにとっては、大正天皇の病状に鑑み、先ず政治の実権を皇后節子からあるべき姿に取り戻す必要があったが、その矢先、大正10(1921)年11月4日に原 敬首相が東京駅頭で刺殺されてしまう。翌年1月10日 大隈 重信、2月1日 山縣 有朋と維新を支えてきた政治家たちが相継いで亡くなってしまうのだ。

そんな中、摂政裕仁は外遊で培った「後宮改革」への志の第一歩に手をつけようとする。それが女官(にょかん)の大幅削減と通勤制であった。裕仁は次のようなねらいを列挙した。

1 女官が世間知らずでうかつであること。
  「一生奉公は人間が愚鈍になる。」
2 妃教育上の問題
  「世間知らずの女官に囲まれていては啓発されることもない。」
3 子供の教育問題
  「乳母育てには不賛成、今の女官には任せられない。」
4 私生活口外の危惧

プライバシーの侵害、実際、宮中女官の多くは華族や高級軍人の縁者たちであったから、どれほど口外を禁止しておろうとも、さまざまな情報がアンダーテーブルで外に漏洩していた。
睦仁大砲気絶事件や裕仁マージャン事件などの与太話のほかに、犬養 毅は粛軍情報を女官経由陸軍に漏らされ、結果、暗殺されている。

牧野 伸顕宮内大臣は動揺し、家庭的団欒については取り敢えず「仰せごもっとも」と答えたものの、それ以外の理由についてはとてもうなずけられるものではなかった。
祭祀や伝統的行事については典侍など高等女官の重要な役割などと、あーだこーだ説明したが、裕仁は「通いと住み込みの混在は気遣わしい、全部改めよ」と頑なな姿勢を変えない。

困り果てた牧野は「皇后様の思し召し」も伺う必要がある、とかわしたが、当然であろう。大正天皇は既に療養の身であり、若い摂政の裕仁に対して、いま宮中の実権は「天皇の戦争責任に反論す-29」でも述べたように、皇后節子にあったからだ。

皇后節子は皇太子不在の半年間、大正天皇が祭祀の履行困難な中、宮中祭祀を女官に代行させず、単独で積極的に実行してきた。この間にそれまで「創られた伝統」とみなしていた宮中祭祀への考え方がはっきりと変わっていたのである。

(続く)

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