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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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天皇の戦争責任に反論す-22でも少し説明したが、裕仁皇太子は東宮御学問所で帝王学を学んだ。担当であった杉浦 重剛や白鳥 庫吉らが理想の天皇としていたのは、寡黙で慎み深く、いかなることがあろうとも表情を崩さないと言われた明治天皇(※ 1)であった。
たとえば杉浦は倫理の講義でこう教えている。

「次に挙動につきて注意を要す。坐作(ざさ)身体皆慎みて其の節を誤ることなく、言語を少なくして且つ明晰ならしむべし。若し能く此の如くならば、必ず威容を高雅ならしむべきなり。」

「明治天皇の御事は申すも可畏(かしこ)けれども、生平謹厳にして喜怒を苟(いやしく)も給わず。曾(かつて)大演習の際、其の地にて群臣に拝謁を賜りしに、一文官鞠躬(きっきゅう)如として御前に進み、拝礼の後、背進して退席せしが、恐懼(きょうく)の余り度を失ひ縁側より逆さまに落ちたり。侍臣等覚えず失笑せしも、天皇は泰然として御顔の色だに変へさせ給わざりき。」(杉浦 重剛 全集)


東宮御学問所時代の裕仁皇太子は、地方視察の途上、人々と対話をしたと言う記録が一切残っておらず、各地の天皇陵・神社の参拝の折にも無言で進み、参拝すると言った動作を繰り返すだけであったのはこのような教育の影響からか、と思われる。

「大正8(1919)年皇太子殿下御成年式を挙げせられ、其の祝賀御宴に元老以下の大官を霞ヶ関離宮に召されたる時、殿下は拝謁を賜り御宴に着席遊されたるのみにて何もお話遊ばされず、何か御話申上げても殆ど御応答無き状態なりし由・・・」(「侍従武官長 奈良 武次日記・回顧録」)

元老 山縣 有朋がこれを

「恰(あたか)も石の地蔵の如き御態度」

と非難し、山縣の助言を元に奈良がまとめた「殿下御補導方針」の中には

「二 余り厳格なる御態度よりも御自由ご闊達なる態度を取らせられ、御対話に慣熟遊ばすこと、之が為め成るべく人に接せられ、御雑話遊ばすこと、則ち拝謁を多く賜ること。」

がある。奈良の記録によれば

「山縣、西園寺両元老方面に於いては殿下の御教育御補導に大革新の必要論起り、漸次当面の大問題となり、先ず御教育を開放的にすると同時に、殿下の海外御巡遊を企図したり。」

ということになった。
山縣は裕仁殿下の御教育を開放的にすることによって皇太子自身の性格を矯正することを目的とした。しかし、これには別の事情がある。

時あたかも欧州ではWW1の終結と革命に伴い、長い歴史と伝統を誇っていた君主政治が次々に崩壊していた。皇太子の欧州訪問は大衆社会との適合を図ることで、大戦後になお生き残ろうとする英国の君主政治のあり方を実地に学ぶ貴重な機会となるはずであった。
すなわち、この訪欧には危機に瀕した近代天皇制を立て直すという隠された、しかし最も重要な意図が込められていたのである。

だがこの皇太子訪欧はすんなりと決まったわけではなかった。
元老山縣の後押しにより欧州外遊を企図した原首相に対し、頭山 満をはじめとするいわゆる右翼たちが、「すめらみ国の日つぎの御子」を「夷狄(いてき)」の国に出すことに反対し、宮内省幹部らを攻撃し始めたのだ。

さらに昭憲皇太后(大正天皇の死後3年後に死去)の寵愛を受け、皇女教育などを任されていた下田歌子なる高級女官が皇后節子(※ 2)の身辺に侍り、

「元老たちが洋行を勧めるので、無碍にも反対出来ず、色々心配した挙句下田に意見を求めた。」

とする節子皇后から下田への内書が原にもたらされた。大正9(1920)年8月4日のことである。
原は驚愕するとともに、たびたびのこの非公式ルートでの節子皇后からの情報に危機感を抱く。
当時下田は67歳、節子皇后は37歳であったが、老獪な下田に皇后が利用された、と見ることも出来るし、「政治不介入」の立場を取っていた皇后が宮中での重要事項や政治問題に本音と建前が交錯することで、怪しい人物たちに付け込まれたとも言えなくもない。この間の節子皇后の動きはいまひとつ鮮明ではないのだ。

一方、元老山縣は皇太子裕仁の結婚相手として内定していた久邇宮良子(くにのみやながこ)に対して、「良子の母方に色覚以上の血統がある」との理由から結婚反対の意思を表明する。こちらは同年12月、皇太子が洋行に出る2ヶ月前の話だ。

この宮中某重大事件と皇太子洋行問題はワンセットである。
洋行推進、内定反対の山縣に対する、洋行慎重、内定推進の節子皇后との対立であった。久邇宮良子を皇太子妃に決定したのは節子皇后であったが、良子の母方とは薩摩の島津家であり、長州閥の山縣にとって内定反対は薩摩閥を揺るがすための圧力に他ならなかった。これに、側近の高級女官や怪しげな行者や右翼に対して東宮御用掛(皇太子教育係)や久邇宮家らが加わって暗闘したのである。

ともあれ、いずれの問題も「累を聖上に及ぼす」との理由で宮内大臣 中村 雄次郎の辞任をもって一件落着となったのは、欧州出発のわずか2週間前である。こうした宮中内でのゴタゴタの中で、大正10(1921)年3月3日、皇太子裕仁は欧州視察に出発した。

(※ 1) 明治天皇 祐(さちの)宮睦仁(むつひと)
嘉永5(1852)年9月22日~明治45(1912)年7月30日(実際には29日夜半)
実母は権典侍(ごんすけ)で側室の中山慶子(よしこ)。
幼少から病弱・臆病・勉強嫌い・身勝手・邪険であり、まさに普通の子供だった。後に聖人と崇められたが、これが教育の成果だったとしても、伝えられる数々のエピソードからは成人後の天皇とあまりにも違う。
写真は当時すでに珍しくなかったにもかかわらず、明治天皇の写真は存在せず、替え玉説あるいは途中入れ替わり説などの推論が今日に至るも絶えない。

(※ 2)皇后節子
正室である皇后が四人の息子の実子であることは、皇位継承の不安が一切なく、側室の必要もなかったから、宮中における皇后の権威と権力は自ずから生じた。まして天皇が病弱で、かつ皇太子が若輩であったことは、「政治向きのことに自分が口を出すのは避けたい。」と言いつつ、彼女の地位を不動のものとした。

(続く)

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