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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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やれやれ、変な書き込みがあったが、それだけ読んでもらっているのかと思うとうれしい(^^;
忙しさにかまけてアップが遅れたが、再開しよう。

よしんば開戦の詔勅に判を押すだけの存在だったとしても、その「御名御璽」がなければ、戦争が発動しないのだから、天皇にはそんな重大な命令に判を押した責任はある。
そして、天皇ご自身もその責任は十分にご認識されていた。

ところで今から述べる「責任」とは、あくまの査問官氏が言い募る「戦争責任」とはまったく違う、ということを念押ししておきたい。

「昭和戦前の歴史の中で政治(的言語)とその責任について最も自覚的だったのは、昭和天皇と石原 莞爾と北 一輝なのではないか。」(「昭和天皇伝説 たった一人のたたかい」松本 健一)

いまから天皇が果たそうとされた「責任」について考察するにあたっては、それを支えた近衛首相について触れないわけにはいかない。

前にも述べたが、天皇が政府を優先させようとなされたにも拘らず効果がなかった最も大きな原因は、その代表者たる近衛首相にその政治力がなかったからである。

第一次近衛内閣    1937年(昭和12年)6月 4日~1939年(昭和14年)1月5日
第二・第三次内閣   1940年(昭和15年)7月22日~1941年(昭和16年)10月18日

彼は三代の内閣で、通算二年十一ヶ月に亘り、首班を努めた。この間、戦争に関していかなる言動があったか。さかのぼって、たどって見よう。

「大東亜戦争の責任を取って退位されるべき・・・自決されるのが最もよい」(ポツダム宣言発表時の近衛談話 昭和20年7月26日)

天皇が近衛の言うような「自決」を一度も思い浮かべなかったのは、天皇は責任ある立場として開戦にはあくまでも反対であり、大権を有しているにも拘らず、敢えて議会制民主主義を尊重した上で、さまざまな工夫をもって戦争回避を試み、それでなおかつ「立憲君主」として内閣が決めたことには「ベトー(拒絶)」を行使しないという立場を守ったからだ。

だから、彼が戦犯としての召還日が迫るや、服毒自殺を遂げたことに対して「近衛は弱いね」と天皇は冷たく言い放ち、また『(日米交渉に就いての)手記』を読まれたあと「どうも近衛は自分にだけ都合のよいことを言ってるね」と批判している。

昭和天皇が帝国憲法における天皇の統帥権についてどのように規定されているのかを熟知されておられぬはずはない。ゆえに張作霖爆殺に始まる満州事変に対してもその正当性について一貫して否認し続けていた。それも自らの「統帥権」の下に否認したのではなく、関東軍が政府(閣議)の決定に従わなかったことにおいて否認し続けていた。

ところが、近衛は日本が米英と戦争に突入していった最大の原因を「統帥権の独立」とし、その問題を解決しなかった一番の責任者に昭和天皇を挙げている。
近衛としては、天皇が元老たちの意見に従って英国風の「立憲君主」たろうとしたことで「国務と統帥とが独立」してしまったところが間違いの元だ、というのだ。

「日米戦うや否や、という緊迫した空気の中で、自重論者であらせられた東久邇宮殿下の『陛下が屹然としてご裁断あそばさるる以外に方法なし』に対し、『軍にも困ったものだ』とお答えになられたと拝聞する。その時殿下は『陛下が批評家のようなことを仰せられるのは如何でありましょう、不可と思し召されたら、不可と仰せられるべきものではありますまいか』と申し上げたと承っている。」『(日米交渉に就いての)近衛手記』

近衛の言わんとするところは天皇が独裁的とまでは言わないまでも、専制的な君主であるべきだ、その専制的な裁断でもって日米開戦を拒否すべきであった、とする主張に他ならない。

しかし、政治の最終責任者が総理大臣であることを考えれば、帝国憲法にはないが英国風の「立憲君主」たらんと欲した昭和天皇に責任を帰すまえに、まずもって近衛が首相として本来果たすべき政治責任がきびしく問われなければならないのではないか。

(続く)

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