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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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保阪 正康は秩父宮関与説が生まれた背景を縷々述べた上でその関連性を一刀両断に否定しているが、それはやはり無理であろう。宮ご本人が好むと好まざるとに関わらず、例えそれが間接的にせよ、秩父宮が陸軍の少壮将校に影響力を与えていたことは否定出来ないのだ。

秩父宮が陸軍士官学校時代、北 一輝に私淑する西田 税(みつぎ)と同期であった、また第一師団(東京)歩兵第三連隊(後の決起部隊である)の中隊長になるが、そのときに安藤 輝三が部下であったことなどはすでにいろいろなところで述べられているが、これはある意味で運命的な出会いであった。一種のバタフライ・エフェクトである。シンボル陸軍としての秩父宮とアンチ軍閥だった天皇との軋轢については後述する。


2・26事件は昭和11(1936)年の話だが、この事件の前から秩父宮には昭和天皇に代わって即位するという噂(うわさ)があった。事件にさかのぼること五年、昭和6(1931)年10月17日の加藤 寛治(ひろはる)海軍大将の日記にはこんな記述がある。

「関屋、秩父宮様帝位簒奪の可恐(おそるべき)評判を立つ。不可恕(ゆるすべからず)。」(「続 現代史資料5 海軍」 伊東 隆編)

何でここで唐突に関屋 貞三郎(※)などという名前がいきなり出てくるのか判らぬが、彼のことはとりあえず措くとして、火のないところに煙は立たぬ、裕仁が即位してからわずか6年目、30歳の天皇に対して29歳の弟を擁立しようとする動き、2・26事件の五年も前からこのようなうわさがあったこと自体、皇室内がすでに尋常ではなかったことを意味する。
では、一体いかなる状況だったのか。

少しさかのぼるが、この頃の日本は大正7(1918)年末にWW1が終結し、翌年のヴェルサイユ条約締結や翌々年の国際連盟発足など、国際的な軍縮の機運が高まっていく中、軍部は自己の存立そのものへの危機感を高めていき、次の世界戦争に向けての準備を進める動きが活発になって来ていた。

国際社会とのバランスを取ろうとし、英米との強調を図ろうとする元老西園寺公など天皇の側近たちとは対照的に、朝鮮支配や中国市場をめぐる問題を中心に、日独同盟推進派の若い近衛や松岡 洋右などが軍部と一緒になって次第に対立軸を鮮明にしていった。

ところが、即位直後から病弱であった大正天皇は、即位後八年ごろには、異常とも言える病変を示し、もはや周囲は無視できなくなってきていた。国内外にデモクラシーや革命運動が活発になっていく一方、こうした緊迫した時代を皇室が生き抜くためには、皇室の中枢である天皇にはそれなりの強靭な精神力や肉体が必要とされた。なのに、肝心の天皇は政治的にも軍事的にも国家の指導者として全く頼れる状態にはなく、きわめて不安定な状況にあったのだ。

こうした天皇に代わって、宮中を仕切っていたのは皇太后美子(はるこ)(後の昭憲皇太后)や皇后節子(さだこ)(後の貞明皇后)であった。さらには側近である女官の影響が小さくなかったが、女官の件については本論からずれるので、今は詳しく述べない。それよりも今は秩父宮である。だが、この秩父宮、さらには昭和天皇を語ろうとすると、母である節子(さだこ)(後の貞明皇后)が密接に関係してくるのである。書いていくのがまことに難しいが何とか頑張ろう。

大正元(1912)年大正天皇が践祚(せんそ)した時、皇太后美子(はるこ)は西園寺 公望首相にこう言った。

「陛下は未だ政治にご経験もなきに付き、十分に補佐せよ。」(「原 敬日記」)

皇太后がわざわざ首相に命じているである。
さらに、わずか半年後の12月2日、閣議での二個師団増設案否決をきっかけに第二次西園寺内閣は総辞職し、第三次桂太郎内閣が組閣されるが、その際、桂は西園寺了承の下にこの間の更迭のいきさつについて皇太后美子(はるこ)と皇后節子(さだこ)に説明している。
新天皇が居ながら、皇太后や皇后に政治の内情を報告しようとしたのである。「病弱」の天皇を抱えた側近たちの苦渋の選択であった。

「西園寺は明治天皇が崩御したときからすでにこの方式を意識していた。西園寺たち側近は徳大寺実則(さねのり)侍従長を通じて皇太后に対して『事態を新天皇によくお話下さる様』頼んでいた。
しかし、皇太后は『政治向きのことに自分が口を出すのは避けたい。明治天皇は女性は政治に口を
出してはならぬ、と戒められていたから、それに従いたい。』と拒否し、『ただし、政治向き以外の
ことならば、なんとでも申し出ればそれを新天皇に申し上げる。』と付言した。
原は西園寺からこの話を聞き、『古(いにしえ)の賢婦人など言ふことは、実に此(か)くの如き御方のこと、恐れ多き次第なり』と感服している。
恐らく原の感服は、皇太后が『政治向き』には関わらないと述べた『女としての謙譲』にあったことに止まらなかったのではないか。『政治向きに関わらない』と述べることで、『関わることを暗に伝えた』賢婦人ぶりに深く感じ入ったのだろう。病弱の天皇に代わり天皇としての機能を引き受ける、ということを、『女』を理由にしながら『無問責』の天皇の代行をするという意味を含めたからである。皇太后美子は、天皇制政治システムのツボを心得ていたのである。」(「宮中とデモクラシー」 小田部 雄次)


少し引用が長くなったが、昭和天皇と秩父宮の後ろに誰が居てどういう影響を与えていたのか、次第に明らかになっていく。

(※) 関屋 貞三郎
元宮内次官 無教会派クリスチャン 貞明皇后の皇室キリスト教化のサポート役として牧野伸顕宮内大臣が選び抜いて抜擢 無教会派クリスチャンでありながら、大正八年~昭和八年まで宮内次官として皇室の慶弔を取り仕切っていた。神道の中枢である宮中でのいわば「隠れキリシタン」である。

(続く)

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