忍者ブログ

御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

カレンダー
04 2017/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[11/13 canon eos 600d kit]
[03/04 かっくるなかしま]
[11/19 tomyk]
[11/04 tomyk]
[07/30 検察OB]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
ステディ ベア
性別:
男性
職業:
世間観察業
趣味:
JAZZ 演歌 讃美歌
バーコード
ブログ内検索
カウンター
お天気情報
Script:Ninja Blog 
Design by:タイムカプセル
忍者ブログ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

(※6) 川島は青年将校の要望した決起趣意書を読み上げ、「斯くなる上は強力な内閣を組閣せねば」と上奏

天皇「陸軍大臣はそういうことは言わないでもよい。それより反乱軍を速やかに鎮圧するのが先だ。」

この天皇の怒りは、事件を知って続々と参内し始めた陸軍上層部の人々にも伝わっていく。

(※7) 軍事参議官会議メンバー(統は統制派 説明なしは皇道派)
(勝手に皇居に集まってきたため、正規メンバー一部不在、無関係のものが陪席)
本来は天皇の求めに応じて重要な軍務について、上奏する機関であったが、このときは天皇の臨席のないまま非公式に開催され、事件処理案について終始皇道派のリードで進められた。

「全くかわいそうだったのは、川島という人で、各人が銘々勝手に発言して、処置判断が全くつかず、呆然としておられた。荒木、真崎、林などみんないずれも態度が不鮮明な中、極めて反乱軍に同情的だったのは山下奉文(ともゆき)少将で、要するに方針が決まらず右往左往して全く頼りない人たちだったなぁという印象。」(迫水 久常首相秘書官)

(※8) 会議において大臣告示作成の音頭を取ったのは山下である。山下は嘘の「大臣告示(-1)」をどうしても取り繕う必要があり、事後処理のために本物の大臣告示を発しなければならなかったのである。
しかし、公式の命令書である「大臣告示」という表題にも統制派から異論が出て、結局「大臣より」という何とも奇妙な表題の単なる談話に近いものとせざるをえなかった。

「大臣より:蹶起の趣旨に就いては天聴に達せられあり 諸子の真意は国体顕現の至情に基くものと認む」

(※10)参事官会議で何とか合意に達し、これを香椎と山下がそれぞれの手段で伝達した。
ところが、会議で決定した「大臣より」がこっそりと「大臣告示(-2)」に変わり、その中身も改ざんされて、部隊に下達されていたのである。

「大臣告示(-2):蹶起の趣旨に就いては天聴に達せられあり 諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む」

これは午前中に一部の部隊に下達された大臣告示(-1)と全く同じである。いや、香椎と山下にとっては大臣告示の(-1)と(-2)はどうしても同じでなければならなかった。

しかし、ここでいう「行動」と「真意」はその意味において大きな隔たりがある。

「真意」ならば「思っただけ」だから、上司は「よしよし判った判った」で済むが、「行動」となれば、上司も「実際の暗殺を認めてしまう」ことになる。陸軍内は大混乱となった。事件が4日間も迷走する原因はここにあったのだ。

(※9) 順序が後先になるのだが、ここでまた不思議な命令が下達されている。
それが「大臣告示(-2)」の20分前に発出された決起部隊に対する「軍隊に対する告示」であり、これは26日未明から行動していた決起部隊を「正規の軍隊の一部として認める」という内容である。
この告示と「大臣告示(-2)」、二つの告示によって兵士達は自分達の行動は正しい行為だと信じ込むことになる。

「総理大臣を部隊で集団で殺すということは、普通じゃ考えられません。そういう状況の下でこういう告示を与えられたということは、私たちのやったことは良いことのように解釈してたんですね、皆が。もうある意味では自分たちの行動が認められたということで、ホッとした感情を持ったんです。」(襲撃参加兵 入隊して2ヶ月目の小高 脩平氏)

「私は参謀本部を警備していました。参謀本部では私たちに熱いご飯を炊いてくれました。味噌汁もくれました。しかも参謀肩章をつけた偉い人がご苦労、ご苦労と言ってくれたのですから、私たちはええことをしたと信じていました。悪いことをしたなどとは夢にも思いませんでした。」(歩兵第三連隊 軍曹 藤城 銀次氏)

(※11) 匂坂春平主席検察官による香椎と真崎の追及は最後までなされたが、後半の最中の7月に盧溝橋事件が発生、8月には日中戦争に拡大、陸軍上層部からの香椎・真崎の裁判への圧力は最高となるとともに、戦争で裁判どころではなくなったということにされ、香椎は証拠不十分で不起訴、真崎は無罪で結審した。

この事件はいわゆる「統制派」と「皇道派」との確執、ということになっているが、実は「天皇親政・昭和維新」をうたう皇道派にとっては、そんなことはどうでも良かったのではないか、という思いが強い。自己保身のために、何事もなかったようにあっさりと皇道派の衣装を脱ぎ捨て、青年将校たちを捨てたからである。

さて、いよいよ本題である。
秩父宮はこの大騒動の中でいかなる位置に居り、どのような行動をとっていたのだろうか。

(続く)

PR

Post your Comment
Name
Title
E-mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
Trackback URL