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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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話はずっと下るが、戦争末期に表面化した天皇と高松宮との確執を知る者にとって、昭和50(1975)年2月号の文芸春秋に掲載された評論家 加瀬 英明によるインタビュー記事「高松宮かく語りき」と、翌年2月号に掲載された「皇族団欒」は、それがまだ尾を引いていることを思い出させるのに十分であった。これを読んだ入江は、

「開戦前に高松宮が『天皇に対して平和論を主張していたこと』、ミッドウェーの敗北で『これでもうだめですと言って、早く戦争を止める工夫をしなさいって、左右(に)言って歩いたこと』、『私(高松宮)が努力しなければ、終戦はもっと遅れていたこと』などを強調する記事と座談会」
「高松さんをいい役にしただけのつまらぬもの」「高松さんが一人で誇り(ママ)かにしゃべっておられるだけ」(入江 相政日記)


とばっさり切り捨てた。
高松宮がサイパン陥落以降、早期講和を主張し、天皇と激しく対立したのは事実である。だが、文芸春秋では高松宮は開戦前から一貫して戦争に反対していたかのような口ぶりなのだ。

「これ(文春の記事)が御上には非常に気に入らず、実に数え切れないほどたびたびお召しがあった。」(同 上)

後日、メディアから戦争責任を質問されて、高松宮はこう述べている。

「二、三年前の文春の対談記事で陛下のことが私の話として間違ってヰ(い)た、それを訂正しろと言うわけなのでどこの何が間違いなのか私には判りませんといえば全文を取り消したらよいといった按配なのでここを訂正しろとか取り消せとはっきりお示しを戴かないと出来ないと申したら今取り消しを約束すれば入江からそこのところを示させようと言う、果ては私が事毎に怒るので皆んな恐れている、いい大名は人のいうことを言わせるようにしたではないか(と)のこと、人はそれぞれの習癖あるからすぐにどうかせいと言われても、それは出来ないといって打ち切った。」(「高松宮宣仁親王」 朝日新聞社)

昭和51年の二、三年後、というだからこれ(↑)は昭和53、4年ごろの発言と思われる。この年の1月3日、誕生日のお礼に高松宮が吹上御所を訪れたとき、天皇との間にこうしたかなり激しいやりとりがあったのは間違いない。

御所での誕生日のお礼の拝謁は毎年行われており、文春座談会の前年(昭和49年)にも行われたが、そのときにも天皇にとって不愉快な高松宮の言動が翌日、天皇の耳に届いている。

当時の日記の内容をス・ベ風にざっくばらんに要約すると、

「宮中祭祀を蔑(ないがし)ろにして、生物研究に没頭している、生物研究は陛下の主のお仕事ではない、そんなことばかりやっているから、昨日の一般参賀翌日の大事な今日の元始(げんし)祭を欠席するようなことになるのだ。」(入江 相政日記)

以後、宮中祭祀の回数と手順について、天皇の体力を懸念し、緩和する方向へ持っていこうとする入江の助言に対して、「誰かが何か言いはせぬか、誰かが何か言わなかったか」と周囲(主として高松宮及び香淳皇后の筆頭女官)を頻繁に気にし、入江の助言には心底不快そうに応諾するようになる。

昭和63(1988)年5月9日、天皇は富田朝彦(宮内庁長官)に

「(高松宮は)振幅が大きく、浜口内閣の振(ママ)には戦争を仕掛けてでも、と主張し、戦争末期には平和だ、そのためには邪魔者を排すべきだと工作(※)、地味確実にその方向に進んで繰れたらと残念に思っている。」(「日本経済新聞」 2007年5月)

(※)「一時は信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條英機首相の暗殺さえ真剣に考えていた。」(細川日記)

と、語ったように高松宮の首尾一貫しない態度に不信感を抱いていた。あの、自殺した近衛に対して「近衛は弱いね。」と言ったときと同じような違和感だったのではないか。

天皇が戦争続行の意思を斯(か)くも頑なに固持していた理由は後に書くが、皇族参謀としての高松宮に関しては、開戦前の勢いは何処へやら、手のひらを返したような消極さと兄に対する冷たく不誠実な言動は、天皇には確実に伝わっており、心の深いところで強い不信感を抱いていたことは間違いない。

これは、一種の権力闘争に近かった。
戦後、権威を禅譲する候補者が高松宮しかいないという残酷な現実、もちろんそれが直接「退位の否定」に結びつくはずはない、と思いたい・・・

だが、天皇の心をかき乱す存在が身近にまだ二人もいた。一つ下の弟と、母である。

(続く)

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