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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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荻外荘会談(昭和16年10月12日)の数日前に、四月まで海軍軍令部総長だった主戦派の伏見宮博恭王が天皇の元に訪れて主戦論を述べたときの感想がある。(天皇が敬語を使っているのは伏見宮の方が階級は下だが年は26歳も上だったから)

「十月の初め(9日のこと)伏見宮が来られて意見を述べられた。即ち近衛、及川(海相)、永野(海軍軍令部総長)、豊田(外相)、杉山(参謀総長)、東条(陸相)の六人を並べて戦争可否論をさせ、もし和戦両論が半々だったら戦争(開戦)論に決定してくれ、とのことであった。私はこれには小倉(蔵相)を参加せしむべきだといって不賛成を表明した。高松宮も砲術学校に居たため、若い者にたきつけられ戦争論者の一人であった。近衛、及川、豊田の三人は平和論、東条、杉山、永野の三人は戦争論、皇族その他にも戦争論多く、平和論は少なくて苦しかった。東久邇宮、梨本宮、賀陽(かや)宮は平和論だった。表面には(その意見を)出さなかった。」(昭和天皇独白録)

ウィキペディアどおり、開戦前の高松宮のスタンスがはっきり書かれているではないか。

付け加えれば、伏見宮の主張は大本営の御前会議は三対三になるので、天皇は戦争論についてくれ、と言うことである。これに対して、天皇は、本来は大本営に入れない蔵相を「参加」させ、戦費を懸念する彼の反対による「平和論の勝ち」を期待したのである。実にリアルな天皇の戦争感覚である。

何?ウィキも「独白録」もどちらもあまり信用出来ない?
うん・・・そうか・・・そうだな・・・ウィキはもともと恣意的な書き込みが避けられないし、「独白録」の製作経緯については当時からいろいろ言われていることは知っている。だから、オイラはいろいろなものを読み漁っているんだが・・・それにそんな事言うならば、『高松宮日記』だって、『十二年の手紙』だって、『戦藻録』だって・・・まぁ、いいや、言いたい奴には勝手に言わせておいて、先へ進もう。

昭和19年、戦局がいよいよ悪化し、7月9日のサイパン陥落に至り、主戦派だった高松宮は

「『絶対国防圏の一角が破られた以上、戦争目的を極端に言って、如何にしてよく負けるか、という点におくべきだ』と、ご認識されていた。」
「高松宮殿下は最近、御上と往々ご議論あそばされ、先日も御上は『高松宮は解らなくて困る。』と、仰せあり。また、高松宮も『御上はなかなかお解かりにならぬ』と、仰せあることあり。」(「細川日記」 細川 護貞)


と考え方を変えることになる。さらに同日の別な記述において

「(近衛と木戸が話し合った結果、講和の際には)今上陛下はご退位になり、皇太子に天皇の地位をお譲りになって、高松宮を摂政とする。(という結論に達した)」(「東久邇宮日記」)

とまである。こうした不穏な動きに天皇が気がつかないはずはない。

「ご退位につきては、『それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日のような苦境を味わわぬですむであろうが、秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢部に居た関係上摂政には不向き、三笠宮は若くて経験に乏しい』との仰せ。」(「側近日誌」 木下 道雄 侍従次長)

これは終戦後、昭和21(1946)年3月6日の記述である。
ここでもし退位すれば摂政を立てることになるが、現実的に「その摂政に相応しい親王が居ない」、と断言している。皇太子はまだ12歳で、摂政の候補たりえなかった。

一時は退位も考えていた天皇が、考えを変えた理由として、『神』に戦勝を祈り続けた戦中期の行為を悔い改め、明治維新以前の皇室に戻り、国民とともに平和を祈り続ける決意を固めていたとすれば、退位しなくても責任を取る道が開けることになる、そう考えた可能性はある。
また、GHQからの感触や、国内巡幸の結果が考えていた以上に国民の熱狂的歓迎を受けたことも動機のひとつにあったかも知れない。

退位は戦犯容疑者としての収監につながる可能性が高く、皇室の存続に重大な影響を及ぼす、という考えもあったかも知れない。
それとも・・・おっと、少し横道にそれた。今は高松宮についての話である。退位については、もっと後の記述となる。

同じ昭和19年の4月5日、小磯内閣発足と同時に設置された最高戦争指導会議において いよいよ「決戦の時期」が迫っていることから、天皇に伊勢参りをお願いすることとなり、この参拝は高松宮が名代となった。天皇は高松宮にお告文(つげぶみ)を手渡したが、その内容について徳川 義寛はこう述べている。

「お告文の内容は口外すべきものではありませんが、趣旨としては『戦争がこのようになった、今までの戦果にお礼申し上げ、相手の国も含む各国各人がそれぞれの所を得て共存していくように願う。』といったものでした。」(「侍従長の遺言」 徳川 義寛)

ところが、高松宮は、そのお告文について

「要するに戦争がうまくゆかぬ、国際関係がよくゆかぬ、内政上にも面白くないことがある、という莫としたこと、そして今後戦局がよくなるようにと言うだけでよいとのこと、また例のとおり同じことを繰り返しになり、神様にはそれでよいでしょうが、私には飲み込めぬ。」(高松宮日記)

と、天皇を痛烈に皮肉っているのだ。

(続く)

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