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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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(前傾)さらに、東宮御学問所で皇太子に大きな影響を与えたと思われるもう一人の人物が、前述の国史を担当した白鳥 庫吉である。

白鳥が御学問所で用いた教科書は一般の教科書とは異なり、徹底した天皇中心であり、神武から明治に至る歴代天皇の「聖徳」が強調されていた。

歴史に忠実に従えば、平安から江戸時代にかけての天皇の多くは生前も没後も「~天皇」と呼称されていたわけではなく、「~院」と呼ばれていた。
しかしここで、白鳥は北朝五代の天皇については標記にやや配慮しつつも、その他の全ての天皇の表記を「~天皇」で統一して、皇太子に教育した。

前述したように、学習の一環としての地方視察は大正天皇の皇太子時代にも積極的に行われたが、県庁、学校、産業・軍事施設、神社への訪問がその大半であり、天皇陵への訪問はせいぜい二、三ヶ所であった。しかし、裕仁皇太子の場合にはそれらの訪問に加えて天皇陵や火葬塚など、群を抜いて実に数多く参拝しているのである。

大正4(1915)年 京都×2 奈良×1
大正5(1916)年 新潟×1 京都×4 奈良×1
大正6(1917)年 奈良×13 大阪×9 島根×1
大正7(1918)年 京都×51 滋賀×1 大阪×1
大正8(1919)年 京都×4 奈良×1
大正9(1920)年 鹿児島×2 山口×1
(「大阪朝日新聞」及び「泉涌寺史」から「昭和天皇 原 武史」へ孫引き )

白鳥は神武以来の歴代天皇を「全て実在した」、と見なし、神武天皇陵について「日本書紀」の記述のままに「天皇崩じて後畝傍山東北陵(うしろうねびやまうしとらのみささぎ)」に葬り奉る」として、あたかも陵がずっと存在していたかのように教えた。

翌年3月からの欧州視察に出る直前まで、なんと93ヶ所(重複あり)を数える。白鳥の意向が濃厚に反映されているのだ。皇太子にとって歴代天皇の陵や火葬塚を参拝することは、自らが「万世一系の天皇」の子孫であり、やがて124代天皇になることをひしひしと実感するための絶好の機会となることを意味した。

ところで、この(↓)ような意見もある。

「神武天皇陵が決定されたのはいわゆる『文久の修復』の際であり、谷森・北浦論争における一方的な裁断や、その後の被差別村の強制立ち退きなど、恣意的な断定と理不尽な手続きによるもので、全く信用・納得出来ない。これに伴う祭祀の手続きはまさに『嘘の上塗り』であり、最新の古代史・考古学の研究成果が反映されていない。そして宮内庁側の頑なな態度により、この学術的矛盾の解決の糸口は全く見えていない。」(「天皇・天皇制を読む」 外池 昇 歴史科学協議会)

だが、「陵の真偽」についてはここでは深く追求しない。
要は誰からどのような教育を受けたのかが肝心なのであり、皇太子の人間関係だけを辿る。

ここからは、高松宮との確執を見てみる。
天皇と四歳年下の高松宮は昭和11(1936)年1月17日の日記に「宮中祭祀に対する違和感」を記している。

「成年になって初めて宗教的な宮中の祭典に出るのであるが、それがまた神事を人事のごとくに扱う式の参拝で、そこに矛盾を感じても、焦っても何ともならないのである。そして私は御所から離れて別居していたから、御奥での宗教的なる(ソコノミハ神事の神事として残姿があった)行事に触れる機会がなかった。そして傅育(ふいく)に当たった人々は少しのそうした注意を払っていたとは考えられぬ。而して成年になると、常に急に賢所の御式にも出ることになる。唯物的学校教育のみを受けた、精神的にはやはり科学的な修身というよりも単なる形式的な道徳教育を受けた者にとって、藪から棒の出来事である。
宮中の現に私たちの参列する神事は極めて形式的な単なる一時的な敬礼の瞬間に過ぎない。そして、皇族たるものが神道に対する理解、むしろ信仰は動作行為の根底になくてはならぬことを顧みるとき、実に残念に思うのである。」


高松宮のこの感想については

「大変に重い指摘である。高松宮は昭和天皇と同様、成年式を終えてから祭祀に出席することになるが、それまで学習院や海軍兵学校で『唯物的学校教育』だけを受けてきて、いきなり祭祀に出てみても、最も根本にある『信仰』を身に付けることは出来ない、と言っているのである。」 (「昭和天皇」 原 武史)

31歳になった分別盛りの高松宮の過去への「自戒」あるいは「後悔」と理解する限りは原の言うとおりであろう。しかし、オイラには執行者たる裕仁天皇への毒を含んだ揶揄・皮肉に取れて仕方がない。高松宮と裕仁との間はどうだったのだろうか。

「生涯を通してみると昭和天皇と高松宮(さらには秩父宮や三笠宮をあわせた四兄弟)の関係は非常に親密であった。」

とあるが、その一方で同じウィキペディアの中で

「高松宮は、戦争中は開戦当初から和平を主張して、米内光政等をはじめとする海軍左派や、吉田茂等の政界の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立していた。
側近の細川護貞によれば、一時は信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條英機首相の暗殺さえ真剣に考えていたが、他方、昭和天皇は高松宮のことを戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し、戦後、親王が発表した手記に激怒した、ともされている。」

とある。どちらが正しいのだろう。

(続く)

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