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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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迪宮裕仁(みちのみや ひろひと) 追号 昭和天皇
明治34(1901)年4月29日~昭和64(1989)年1月7日

裕仁親王が皇太子になったのは大正元(1912)年7月30日、11歳であり、大正8(1919)年4月29日に満18歳となり、同年5月7日に宮中三殿の賢所(かしこどころ)において成年式を挙げた。原(敬)首相は同年7月30日の日記にこう書いている。

「明治天皇祭につき、賢所に参朝せり、皇太子殿下御成年後に付始めて御親拝ありたり(両陛下はご不在)」(「原 敬日記」) 

この一文は、裕仁皇太子が宮中祭祀に関する本格的な第一歩を踏み出したのがいつだったかを明かす貴重な証言となっている。
明治41(1908)年公布の皇室祭祀令には大祭と小祭があった。明治天皇祭は大祭に当たる。
成年式を挙げてすぐに、天皇・皇后の名代として重要な祭祀を執行しているのである。

宮中祭祀は、太平洋戦争中の昭和天皇の重要な行為ではあったが、しかし昭和天皇が最初から宮中祭祀に熱心であったわけではない。
というか、明治天皇も大正天皇も揃って宮中祭祀には不熱心であった。

明治天皇が不熱心であった理由はいくつか挙げられるが、ひとつに潔斎(神聖な行事の前に湯を浴びて身体を清める行為)を嫌ったことがある。明治天皇は一年を通して湯浴みを嫌っていた。
さらには、宮中祭祀そのものを「創られた伝統」と見なしていた。

祭祀を「国体」の根幹と見なす後期水戸学の影響の下に、宮中祭祀が公布されたのは明治天皇56歳(死去の4年前、裕仁皇太子7歳)のときであり、京都に強い郷愁を抱いていた明治天皇は、自らの在位中に東京で宮中祭祀という「偽の伝統」が創られていくことに対して、どこか冷めた感情を持っていた。

だが、このことは明治天皇が神道のイデオロギーを信じていなかったということではない。
明治天皇は後代の天皇と違い、「アマテラス」や「伊勢のおほ神」など、抽象的な「神」ではなく、皇祖神そのものに憚ることもなく言及した和歌が多く残っているのだ。

「(明治)天皇は御自身『生神(いきがみ)』のつもりで、伊勢神宮と常に霊の交通がある、と信じておられた。」(「歴代内閣物語」 前田 蓮山)

祭祀を軽んじたのは、自身が「生神」なのだから自分が参拝する必要性を感じない、当然であったろう。
一方、大正天皇は旅行好きで東京にじっとしているのを好まなかった。明治天皇が死去してからも、祭祀よりも私的な休暇を優先させており、神道そのものを重視していなかったことが想像される。
注目すべきは、貞明皇后も大正天皇と同様の意識であったことである。「聖上の御負担」について、皇后は宮内大臣にこう述べている。

「日記抔(など)を視(み)るに京都時代は只今より余程簡単であったと視ゆ、明治になり復旧なされたるもの多し、日記には祭事に付、女官が代理したもの少なからず、御代御代の中にお弱き方も入らせられ夫(そ)れが為め右の如き取計ひありたるものと考へらる。」(「牧野 伸顕日記」 中央公論社)

幕末まで京都御所内の賢所では、祭祀の多くは女官が行っていたのに、「皇室祭祀令」により宮中祭祀が復旧されてからは、それらが年中行事化した上、天皇の出席が義務化されるようになったとする、皇后の批判的なまなざしがある。父、兄と二代続けて掌典長を輩出した九條家に産まれながら、天皇同様祭祀に不熱心だったのは、それを「創られた伝統」と見なしていたからであった。

ところが、大正天皇の体調がいよいよ悪化するこの頃から、皇后は認識を大きく改め、裕仁皇太子に祭祀の重要性を説くようになる。

昭和天皇が皇太子の頃、それも成年式を終えた直後から明治天皇祭に出席していることは先代の二人に比べてむしろ特異であった。
そしてこれ以降、皇太子は大正天皇に全て代わって祭祀に出席するようになる。皇太子のこのような態度はいかにしてどこから来ていたのだろうか。

(続く)

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