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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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「帝国陸海軍は本八日未明 西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」(大本営発表)

日本が戦争状態に入ったことを臨時ニュースと号外で初めて知らされた国民は、一瞬、その評価に躊躇した。しかし続く、

「米太平洋艦隊は全滅せり」「英東洋艦主力全滅す」

の知らせで、皆、歓喜に沸いた。
新聞はこぞって「ああ、この一瞬、正に敵性国家群の心臓部にドカンと叩きつけたる切り札である。」「暗雲晴れる」と煽り立てた。あちこちで「万歳、万歳」の声が沸き起こった。
長い日華事変で沈滞しがちだった国民の士気は新時代の到来とばかりに高まったのである。

「閉め切った雨戸の隙間から真っ暗な私の部屋に光の差し込むように強く鮮やかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それをじっと聞いているうちに私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、体が透明になる感じ。」(「十二月八日」 太宰 治)

「私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念の湧くのを覚えた。」(「十二月八日の記録」 伊藤 整)

帝国議会は感謝決議を採択し、国民は続々と陸、海軍に献金した。特に海軍省へ殺到した。開戦後2日間で159万139円81銭、米太平洋艦隊への戦火の詳報が発表された18日には、その日だけで340万7170円62銭の献金が海軍省に寄せられた。

開戦前に朝日新聞社が集めていた軍用機献納資金にしても、平均100~200円程度だったこと、10本入り紙巻タバコが一箱平均15銭、という当時の物価(現在の約千分の一)を思えば、真珠湾攻撃が如何に強い印象を日本国民に与えたかが判る。

当日の夜、首相官邸では陸・海軍首脳の大祝宴会が開かれた。次々に舞い込む勝利の報に、東条は上気して「すぐに陛下に知らせろ、ありのままを報告しろ。」と上機嫌であった、という。
当時の宮中の空気は次のようであった。

「大東亜戦の緒戦の成功はまことに目を見晴らせるものがあり、そのため国民の間には政府の宣伝なども手伝っていささか戦勝気分に酔い、安易な考えがあるように私には見えた。こういった空気は大奥の女性などの間にもあったと思う。」(「木戸 幸一 関係文書」東京大学出版会)

ただし、この(↑)記述にある「大奥の女性」とは、

「宮中で戦勝気分に浸っているのは、天皇によって宮中改革され、通勤制に改められた皇后宮職よりも、むしろ旧態依然とした皇太后職の女官をさしているように見える。」(「昭和天皇」 原 武史)

原のこの何気ない指摘は大変重要で、どうしても後に触れなければならない。

天皇と母(貞明皇太后)との確執、三兄弟(秩父宮、高松宮)の確執、戦争終結の決断に至るまでのご自身の苦悩に関連するのである。

もちろん、宮中で戦勝気分に浸っていたのは女官ばかりではなく、他ならぬ天皇ご自身であった。
香港が陥落した12月25日、

「平和克復後は南洋を見たし。日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉 庫次侍従日記」 文芸春秋)

シンガポールが陥落した翌日の17年2月16日には

「全く最初に慎重に十分研究したからだとつくづく思う。」(「木戸 幸一日記」 東京大学出版会)

ジャワ島が陥落した3月9日には

「あまり戦果が早く挙がり過ぎるよ。」(同 上)

こうした天皇の言動に対して、後のサヨク歴史家はこう言う。

「近年の歴史学的な諸研究の蓄積・進展によって、天皇の実質的権限の否定、軍部・政府の天皇無視など、天皇は一種のロボットで政策決定や戦争遂行に主体的に関与しなかった、戦況を知らされていなかった、とか言った類の天皇の『実態』からする『戦争責任否定論』は少なくとも学説レベルではかなり克服された、といって良い。

昭和天皇は国家意思形成、とりわけ軍事戦略・作戦の決定に際して、しばしば重大な役割を果たしてきた。昭和天皇は陸海軍から量・質ともに当時としては最高レベルの軍事情報を毎日『戦況上奏』として提供されていたし、その情報が意味することを理解し、軍がとるべき手段について独自に検討する軍事的知識と能力を有していた。

国家意思の発動、とりわけ軍の機関意思の発動としての戦略・作戦の決定に天皇は、随所でさまざまなレベルの影響を与えていたのである。

昭和天皇は15年戦争の期間に大元帥としての自覚と能力を次第に高めつつ、軍部が提供する軍事情報と自らの戦略判断を基礎に国家指導層への『御下問』『御言葉』を通じて国家意思形成(戦争指導・作戦指導)に深く関わった。天皇は戦略や作戦について、統帥部の方針や具体化の方法を必ずしも無条件で認めていたわけではない。

15年戦争における戦略・作戦の決定という問題に限定しても、さまざまな場面において昭和天皇が国家意思の形成に具体的な影響を与えている。
また、2・26事件や『終戦の御聖断』などの事例に見られるように、通常の国家意思決定システムが機能不全に陥ったとき、天皇という機関がその役割を果たした。これは帝国憲法の下で、天皇という機関こそが究極の危機管理システムであったことも示している。」(「昭和天皇と戦争責任」 山田 朗 歴史科学協議会)


保留しなければならない内容をかなり多く含んでいるが、天皇のこうした言動が国家レベルでの意思発動に影響を与えていたことは事実である。あぁ、それなのに、山田は別な論文でこれと矛盾する記述をするのだ。だが、それはまたあとで指摘することとする。今は山田の主張にいちいち関わっている暇などない。先へ進まなければならない。

(続く)

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