忍者ブログ

御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

カレンダー
06 2017/07 08
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
フリーエリア
最新コメント
[11/13 canon eos 600d kit]
[03/04 かっくるなかしま]
[11/19 tomyk]
[11/04 tomyk]
[07/30 検察OB]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
ステディ ベア
性別:
男性
職業:
世間観察業
趣味:
JAZZ 演歌 讃美歌
バーコード
ブログ内検索
カウンター
お天気情報
Script:Ninja Blog 
Design by:タイムカプセル
忍者ブログ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

迪宮の成年式は満18歳となった日の1週間後だったが、一つ下の秩父宮は大正11(1922)年の誕生日に20歳の成人式をやっている。
大正11年という年は21歳の摂政裕仁が宮中改革に着手する意思を明確にした年であり、スポーツや地方視察に熱を入れ、皇后節子の怒りを買った年でもあった。

この年、秩父宮は成人式と共に、7月に第34期生としての陸軍士官学校を卒業した。この第34期生にはあの西田 税(みつぎ)(2・26事件の前に除隊)がいる。
最初は歩兵第3連隊の隊付将校、後には同連隊の第6中隊長(少佐)にまでなったが、そのときには部下にあの安藤 輝三がおり、安藤に薫陶を与える立場にあった。

天皇の戦争責任に反論す-28
安藤は事件後、銃殺されるまさにその時まで秩父宮への尊敬を忘れず、処刑前夜の遺書の中には秩父宮への追慕の念を書き連ねて、処刑場で十五名の処刑された青年将校が、全員「天皇陛下万歳」を高唱し従容として死に就いたとき、彼だけが天皇陛下万歳に続いて「秩父宮殿下万歳」を叫んだといわれてる。(但し「秩父宮殿下万歳」を叫んだのは栗原安秀大尉という説もある。)

まぁ、いい、他人による噂話はもうこれ以上述べない。オイラが言いたいのは、唯一つ、

迪宮が秩父宮をどう見ていたのか、あの大東亜戦争と政治的に真正面から戦っていた人々の中に秩父宮は含まれていたのか、ということだ。

そしてその話を進めるに当たっては、皇后節子を語らなければ到底理解は難しいと思っている。
書き進めよう。

(前掲)
そんな中、秩父宮は何をしていたのか。


秩父宮は大正14(1925)年5月29日から2年間、歩兵第3連隊隊付将校(中尉)から渡英した。目的は欧州視察、この間オックスフォード大学モードリン校に入学している。

天皇の戦争責任に反論す-35
大正天皇の病状は、摂政裕仁の誕生に呼応する如く一段と悪化し・・・裕仁がめでたく婚儀を終えた頃から脳貧血の発作が増え、大正14(1925)年12月には強度の発作を起こし、以来皇居で静養することになった。体調不十分なまま大正15(1926)年8月に葉山へ転地療養したが、脳貧血発作は頻発し、風邪、気管支カタルを併発・・・

この脳貧血発作頻発は9月11日以降のことであり、11月12日以降は最早重篤の状態がずっと続いていたのであった。

「12月に入って(御上のご病状は)全ての皇族には伝えられていた。(私は)いつでも葉山に出られるよう着物ごしらえをしていた。」(「梨本宮伊都子 日記」)

ならば大正13年の出発前から父の病状については彼も十分周知していたことであろうし、英国においても逐一情報は伝わっていたことであろう。現に牧野は

「陛下のご病状が悪化しているにもかかわらず、秩父宮も東久邇宮(稔彦)も帰国の促しになかなかご帰朝遊ばされず・・・」(牧野日記)

とぼやいている。ちなみに東久邇宮は単身ルーマニアに滞在していた。

結局ふたりが帰国したのは年が明けた昭和2(1927)年1月になってからで、秩父宮は17日、東久邇宮は29日になってからであった。庶民の形で言えば、死に目に会えなかっただけでなく、殯宮(もがりのみや)移御の儀も、殯宮二〇日祭も、東久邇宮は三〇日祭にも間に合わなかったのである。

いくら船旅の時代だからといって、いや、船旅だからこそ、十分な余裕を取るべきなんだろうが・・・ま、東久邇宮はもともと助平野郎だったからこの際どうでもいいが、実父の死に対する秩父宮の態度はなんなんだ、どうすんだ、えーっ?(非難)・・・いかん、また私憤が先に立ってしまった・・・

そして、この秩父宮の不行跡に対して、皇后節子は何も異を唱えていない、それどころか後述するが、迪宮にとって不愉快極まる事実がやがて明らかになるのである。(今こう書いていても腹が立ってくる・・・)

(続く)

PR

Post your Comment
Name
Title
E-mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
Trackback URL