忍者ブログ

御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

カレンダー
04 2017/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[11/13 canon eos 600d kit]
[03/04 かっくるなかしま]
[11/19 tomyk]
[11/04 tomyk]
[07/30 検察OB]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
ステディ ベア
性別:
男性
職業:
世間観察業
趣味:
JAZZ 演歌 讃美歌
バーコード
ブログ内検索
カウンター
お天気情報
Script:Ninja Blog 
Design by:タイムカプセル
忍者ブログ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

漢字を多用し、頭が痛いが、ことは「昭和天皇の思想的バックボーン」の話である、ここをいい加減にして進むわけには行かない。我慢して先を続ける。

裕仁皇太子は大正3(1914)年4月に学習院初等科を卒業し、続いて五人のご学友とともに出来たばかりの東宮御(お)学問所に入学した。学習院中等科を中退して個人教育に切り替えたことで、精神的な孤独感や情操面の欠如がもたらされた、とする大正天皇の教訓を考慮してのことであった。

この御学問所で皇太子に大きな影響を与えた、と言われるのが倫理担当の杉浦 重剛(しげたけ)、国史担当の白鳥 庫吉(くらきち)であった。

杉浦は講義の方針としてまず「三種の神器に則り、皇道を体し給うべきこと」を挙げた。
「三種の神器」を重視するのは杉浦の師、乃木 希典からの遺訓であり、乃木は山鹿素行の中朝事実を思想的裏づけとしていた。
なお、オイラは「三種の神器」の真贋論争に口を挟むつもりはない。

ちなみに当時学習院院長であった乃木に初等科の裕仁は可愛がられており、また、次のような事が伝えられている。

「乃木は殉死の2日前の大正元年9月11日、午前7時に参内して皇太子と淳宮、光宮の3人がそろうのを待って、人払いをした。そして、ふろしき包みから『中朝事実』を取り出し、誠心誠意の講義を行った。」(『殉死』司馬 遼太郎)

乃木の遺訓もさることながら、杉浦には4年前におきた南北朝正閏(せいじゅん)論争(※)が強く念頭にあった。

(※) 南北朝正閏(せいじゅん)論争

「明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであって、最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和談)ことまでを否定するものではなく、従って現在の北朝の天皇の正当性を否定するものはない。」(Wikipedia)

昭和10(1935)年3月29日の本庄 繁(後の侍従武官長)の日記には

「自分の如きも北朝の血を引けるものにて・・・」

「御血統は南北何れにしても同一にして、只皇統は三種の神器を受け継がれたる処を正しとす、すなわち北朝の天子が南朝の天子より神器を引嗣がれたる後は、この方を正統とせざるべからず。」(湯浅 倉平 当時宮内大臣)

のやりとりが書き留められている。

かくして南朝正統論が確立した明治44(1911)年以降、「三種の神器」は「万世一系の皇統」を担保する神聖なものとなった。杉浦の教育を通じて、明治天皇はもちろん大正天皇が(当時の貞明皇后も)恐らく持ち合わせていなかった「三種の神器が万世一系の皇統を担保する」という意識を、裕仁皇太子は徐々に抱くようになったと思われる。

そうなれば「三種の神器(の二つ)」が安置されている賢所あるいは宮中三殿全体が、伊勢神宮や熱田神宮同様「聖なる空間」となり、そこで執り行われる祭祀はもはや「創られた伝統」ではない、という意識が芽生えていくのは自然の成り行きであろう。

さらに、東宮御学問所で皇太子に大きな影響を与えたと思われるもう一人の人物が、前述の国史を担当した白鳥である。

(続く)

(訂正)前エントリーで

「一方、大正天皇は旅行好きで東京にじっとしているのを好まなかった。明治天皇が死去してからも、祭祀よりも私的な休暇を優先させており」

と書いたが、別な史料を読んでいたら

「嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)は、生後三週間足らずのうちに髄膜炎と百日咳を患い、十五歳の時に不全チフスに罹り、一時は侍医も匙を投げるほど、その一生は病気との闘いであった。学習院を中退させ、個人授業に切り替え、冷水浴や馬術など心身の鍛錬にも気を配ったが、インフルエンザや蕁麻疹など、学習はしばしば中断した。中断の遅れを取り戻すために、詰め込み教育が繰り返されるという悪循環であった。」(「梨本宮妃伊都子 自伝」)

とある。この頃、東宮輔導(教育係)となった有栖川宮威仁(たけひと)は、地方巡啓により嘉仁の健康と教育を管理しようとしたことから、好きで旅行していたわけではなかった。

ただ、明治天皇が死去してから旅行(巡啓)は控えたが、裕仁皇太子が洋行中の時期を除いて、祭祀の有無に関わらず、もっぱら葉山や日光田母沢の御用邸で過ごしている。

この部分のみ訂正する。

PR

Post your Comment
Name
Title
E-mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
Trackback URL