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御製(天皇陛下のお歌) ふりつもる み雪にたへて いろか へぬ 松ぞををしき 人もかくあれ 解説:どれほど難題が待ち構えていよう とも、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、私たちの大切な国を もっと良い美しい国にしていく。

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URL 中韓の批判に合理性なし  インドの元国家安保委事務局長補

 

米国やアジアの政治・安全保障に詳しいインドのラジェスワリ・P・ラジャゴパラン氏は産経新聞と会見し、安倍晋三首相の靖国神社参拝をめぐる中韓などの批判について、「合理的正当性はない」などと語った。主な発言は次の通り。(ニューデリー 岩田智雄)

 どの国も亡くなった兵士に敬意を表する権利がある。安倍首相の靖国参拝をナショナリズムの高まりや軍国主義の復活とみるべきではない。

 日本の首相は何人も靖国神社を参拝しているが、1985年の中曽根康弘氏の参拝に中国が抗議を始めるまでは、今回のように問題視されることはなかった。中国の経済的台頭などが厳しい反応の背景にある。

 日中間の第二次大戦に関する問題は78年の平和友好条約調印で終わっている。中国は再びこの問題をむしかえし、韓国も異議を唱えているが、そこに合理的な正当性はない。

大戦の戦犯を裁く東京裁判で、インド人のパール判事は、日本人を誰もA級戦犯に分類すべきではないと主張した。当時、インドには日本軍の行動に理解を示す者もいた。今日においても日印両国はアジアの平和と安定をどう図るかで多くの共通の認識を持つ。

 インドが今月26日に行われる共和国記念日の軍事パレードに安倍首相を賓客として招いていることは、大きな政治的メッセージを含んでいる。両国は米国を含めて対話を深め、安全保障分野などで協力をさらに進めるべきだ。

 

「本当は 一番知りたい 現代史 なのにいっつも 何故時間切れ」

 

きっかけ:1986年 中曽根首相が靖国神社参拝を取りやめたことに端を発す。

 

中曽根大勲位はそれまで10回にわたり靖国参拝、しかも1985年8月15日には、現職首相として初めて靖国神社に公式参拝した。ところが、このとき、朝日新聞が、1978年に合祀されたA級戦犯のことを取り上げ、公式参拝を問題視する。いわゆる中国に対する「ご注進報道」。この問題をどう思うかと聞かれれば、シナ側も「公式参拝はアジア各国人民の感情を傷つける」と言わざるをえまい。

 

 かくして、大勲位は1986年に一転して靖国参拝を取りやめたのだ。弁解はこうだ。

 

「A級戦犯に礼拝したという批判があり、近隣諸国の国民感情に配慮するために、首相の公式参拝を差し控える」(「内閣総理大臣その他の国務大臣による靖国神社公式参拝に関する官房長官談話」後藤田正晴官房長官:当時)

 

しかし、A級戦犯が合祀されたのは1978年、それが報じられたのは1979年。その後も大平正芳首相、鈴木善幸首相が靖国参拝。にもかかわらず、シナやコリアからはまったく批判なし

本来は毅然として突っぱねればいい問題だったが、こうした対応のまずさが、中国に靖国問題の対日カードプレゼント。「ご注進報道」にシナが反応、その圧力に日本が屈するというパターンが完成。

 

大勲位の弁解

「この参拝が中国の内部の権力闘争に援用され、特定政治家の失脚につながる危険があるという情報を聞き、日中友好を維持するために参拝は行わなかった(『読売新聞』1992年8月14日付)。

 

 ここで言う「特定政治家」とは、当時カネ欲しさに日中友好政策を推進していた胡 耀邦のことだ。さらに大勲位はこんな弁解もしている。

 

「我が国にとって最大の脅威はソ連であって、我が国の平和を確保するためには何としてでもソ連を封じ込めておかねばならない。そのためには中国が一枚岩で安定していることが絶対条件で、鄧 小平体制を危うくすることはどうしてもしてはならないとの考えで、敢えて中止に踏み切った(平沼赳夫著『国を憂いて』)

 

 戦没者の慰霊は国家の尊厳に関わる問題であり、他国の国内事情などで取りやめていいようなものではない。大勲位は口ではうまいことを言うが、国に殉じた人々を慰霊することの重大意義をほとんど解していなかったのである。さらに言えば、シナへの配慮とはシナからの不当な要求に屈服したことになり、かえってシナに侮られ、反日を助長させて、日中関係を現在のような不正常なものにしたのだ。

 

 そもそも当時の大勲位が行った参拝方法は、敬虔さに欠けた不真面目なものであった。参拝反対派への配慮から二拝二拍手一拝の正式な作法をあえてとらず、ただ単に神前で頭を下げるだけであった。

 

 これに抗議する意味で、宮司が正装を外して彼を出迎えたエピソードは有名である。ある新聞はこのようなやり方を「中曽根方式」などと命名し、一種の参拝方式のような受け止め方をしていたが、いやしくも首相たる者のこのような振る舞いは、「参拝」とは決して言えない。そう言えばあの小泉も、ポケットからの小銭をチャランと放り投げ、ペコンと頭を下げるものであった。

 

 要するに大勲位は英霊に対する厳粛さなど持ち合わせていなかった。彼がそれまで行ってきた参拝は、所詮は有権者である戦没者の遺族に配慮しただけのものだったとしか考えることができない。

 

 このとき以来、日本の首相はおかしくなった。大勲位が守ろうとした胡 耀邦は結局失脚し、その後死去したが、一度中国の要求に従ったために、歴代首相は参拝しないことが慣例化してしまったのだ。

 

 日本人の思いやりを美徳だが、国家としての思いやりは相手次第で国益を大きく損なうものだ。

 靖国の問題は、あくまで心と魂の問題として考えるべきだ。靖国神社参拝の是非を問わなければならないというなら、本来は国民に問うべきだ。いちいち参拝の「許可」を中国に求めてどうする。

 

バチカン市国やリヒテンシュタインは別として、近代国家は、国益が最優先であり、「1に国益、2に国益、3、4がなくても5に国益」だ。自国の国益に先んじて他国の国益を第一優先することは、自ら下国として振る舞うことであり、自国の品格まで落とす属国転落への第一歩だ。

 

 今回、7年ぶりに安倍首相が参拝したが、そうした悪習から抜け出すチャンスであることは間違いない。 実際、さまざまなメディアが批判しているが、安倍首相の参拝支持の方が多い。大晦日の「朝まで生テレビ」では、参拝の是非を問う電話アンケートで、参拝支持が7割だったが、番組最後であったため、田原総一郎はこれを完全に「シカト」した^^:)

 

 

新年のオマケ

(URL)米、南極海へ砕氷船派遣 立ち往生の露、中国船救出へ 


「人命の 尊さ 露・シナに 説くアホウ」

 

米沿岸警備隊は4日、昨年12月下旬から南極海で厚い氷に阻まれ立ち往生しているロシア、中国両国の船の脱出を支援するため、砕氷船を現地に派遣すると発表した。救助活動をしているオーストラリア当局と中ロ両国の要請に基づく措置。

 外交や安全保障の分野では中ロと対立することが多い米国だが、沿岸警備隊は砕氷船投入の理由について「海における人命の安全が私たちの最優先事項だから」と説明している。

 科学者や観光客を乗せたロシア船がまず立ち往生。その救出活動に協力した中国の砕氷船も同様に動けなくなった。

 米国の砕氷船は「ポーラースター(北極星)」。同警備隊で就役中の唯一の大型砕氷船で、厚さ約1・8メートルの氷を砕きながら継続的に航行したり、同6・4メートルの氷を砕いたりする能力がある。(共同)

 

 

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「沖縄の気持ちも分かるけど、国益を考えれば」

「沖縄に我慢してもらう他はない、とその人はいうのですか」

「まあ、そのようなことを」

「自民党の有力政治家がこれまでいっていたのとおなじですね」

「国益はどうなってもいいのですか」

「その国益という考え方が問題ですよ。沖縄は日本ではないのですか。沖縄はつねに日本の国益のために犠牲にされて来た。アメリカの基地が本当に必要なら、日本の本土が少しは犠牲になればいい。それに都合のいいこともある。今、関空が大赤字です。アメリカに関空の一部を基地として使わせれば一石二鳥ではないですか。日本の防衛のためという国益のためになら、それくらいの犠牲を本土も払うべきです。しかも関空の危機を救う。」

「アメリカの基地が本当に必要なら、日本の本土が少しは犠牲になればいい」県外移設の話やな。
そんな話はいまさらシロートのオマイさんから言われなくとも、死ぬほど議論してきたんだってば。
大赤字の関空・・・って、軍事基地があんなところに置けると思っているところが、反日売国夢想主義者とおんなじ脳構造ってことだ。橋下知事一流のハッタリを真に受けてどうする。

軍事基地は滑走路があればいいってモンじゃない、通信や司令部機能、燃料や修理補給などの付帯施設のほかに、軍人家族の受け入れのための住宅、それに若い兵士のための歓楽街だって必要なんだよ。何より被害対処って時に、あんなどん詰まりの基地を抱えてどーすんだ。

かつて普天間飛行場の近傍にある学校を危険性回避のために米軍住宅地の一部に移設しようとしたら、「いーや、この学校は基地反対闘争のシンボルだから、移設させない!」って子供の命と引き換えに基地闘争を継続しているじゃないか。

「そして沖縄県民のこれまでの苦しみを本土の人間も味わってみるのもいいではないですか。」

大体やねぇ、てめぇはおフランスに半分移住しながら、県外移設もへったくれもないモンだ。

「アメリカは日本の防衛のために沖縄の基地が必要なのではない。勝手に起こしたアフガニスタンやイラクでの戦争をサポートするために重要なのです。海兵隊は日本から、アフガンに出発するのではないですか。日本の防衛に必要なのでしょうか」

だーかーらー、日本の防衛のために米国に駐留してもらう必要があるのっ。敗戦と共に日本は独立国家を目指すよりは、貧乏と戦争さえなければ幸せとでもいうインポテンツ国家に成り下がった。おいらには不満だが、国民の選択だったんだからしょうがない。

そして、地政学的には悪の三国に臨むには沖縄本島が最も優れた防衛拠点で、ここを抜きには日米安保はありえないんだ、だから、政府は毎年巨額な補助金を沖縄に注ぎ込み、県民の生活を支えてきたんだ。

実際、基地のお陰で経済的には楽な人はいっぱいいるんだがな。挙句の果てに沖縄県民は勤労意欲が他県民よりも低下しちまったというおまけはついちまったが。そういう意味では不幸だ、しかし、恵まれた環境で自ら不幸になるのはオイラの責任じゃない。

日本はケンポー9条のおかげで、手足を縛られた状態でプールに放り込まれているのとおんなじだ。
戦争放棄って、自分だけ宣言しても無意味だ、だから、せめて、自衛力だけは、と言って自衛隊を作ったわけだけど、手かせ足かせでホントに身動きの取れないいびつな軍隊。ましてや軍事ドクトリンが「専守防衛」だもの。その足りない分を、防衛費をつぎ込む代わりに、米軍にいてもらって守ってもらってんだ。だから、攻め込まれない。

判ってないようだから、前にも言ったけどもう一回ゆっとくね。攻め込まれるって言うけど、一朝、有事の際には、わが国はいきなり本土決戦だかんね、それがどういうことなのか気がついていないだろうけど。
「一体誰が責めてくるって言うのよー、もういっつもバカ右翼はそういうことを言って、軍事だ軍事だっていうんだからー」(By 田嶋 陽子)

現実に竹島は韓国に、尖閣諸島はシナに、北方領土はロシアに、南シナ海ガス田はシナのストローに吸いだされているわな。日本の領海12マイルの外側1メートルには、スパイ、麻薬に偽札、拉致、密輸と、無法者が跳梁跋扈しているんだぜ、もうたまらんわ。

(続く)

更新をサボっているお詫びに笑えるネタをひとつ・・・
一部、修辞・補記しています。

大リーグ鈴木イチローと民主党小沢一郎 の見分け方

塁を盗むのがイチロー Vs 国を盗むのが一郎

点数をひっくり返すのがイチロー Vs 国家を転覆させるのが一郎

華麗に1点を取るのがイチロー Vs 汚れた1億を取るのが一郎

王さんを尊敬しているのがイチロー Vs 金(キム)さんを尊敬しているのが一郎

球を打たないと日本人から非難されるのがイチロー Vs 手を打たないと日本から避難しなきゃならんのが一郎

侍ジャパンがイチロー Vs 弔いジャパンが一郎

金(きん)を取るのがイチロー Vs 金(かね)を取るのが一郎

右翼(ライト)を守るのがイチロー Vs 左翼(アカ)を守るのが一郎

快挙がイチロー Vs 検挙が一郎

最終回に活躍するのがイチロー Vs 済州島で暗躍するのが一郎

自分に厳しいのがイチロー Vs 自民に厳しいのが一郎

カレーが好きなのがイチロー Vs マネーが好きなのが一郎

挑戦が好きなのがイチロー Vs 朝鮮が好きなのが一郎

打撃不振を装うのがイチロー Vs 体調不良を装うのが一郎

叩かれてもゴロを出すのがイチロー Vs 叩かれるとボロが出るのが一郎

ヒットが話題になるのがイチロー Vs 秘書が話題になるのが一郎

世界の一位を奪ったのがイチロー Vs 政界の地位を失ったのが一郎

ヒットで決勝点がイチロー Vs 起訴が決定打が一郎

必勝を成し遂げたのがイチロー Vs 秘書を盾に逃げたいのが一郎

祝杯をあけるのがイチロー Vs 収賄であげられるのが一郎

迂回しなくてもホームに届くのがイチロー Vs 迂回しないと献金が届かないのが一郎

投手から転向したのがイチロー Vs 党首から転落しそうなのが一郎

バットコントロールがうまいのがイチロー Vs メディアコントロールがうまいのが一郎

個人で三億稼ぐのがイチロー Vs 企業献金で三億稼ぐのが一郎

疾走するのがイチロー Vs 失踪したのが一郎

投手の隙をつくのがイチロー Vs 法律の隙をつくのが一郎


        同じ意味でも内容が違うもの           

イチロー・・・「応援ありがとう」 Vs 一郎・・・「応援ありがとう」

お金を多く貰っているのがイチロー Vs お金を多く貰っているのが一郎


        最後に転載元から

笑顔がきれいなのがイチロー Vs 笑顔が見られないのが一郎


ブログ更新も・・・ぐゎんばりまっす!

迪宮の成年式は満18歳となった日の1週間後だったが、一つ下の秩父宮は大正11(1922)年の誕生日に20歳の成人式をやっている。
大正11年という年は21歳の摂政裕仁が宮中改革に着手する意思を明確にした年であり、スポーツや地方視察に熱を入れ、皇后節子の怒りを買った年でもあった。

この年、秩父宮は成人式と共に、7月に第34期生としての陸軍士官学校を卒業した。この第34期生にはあの西田 税(みつぎ)(2・26事件の前に除隊)がいる。
最初は歩兵第3連隊の隊付将校、後には同連隊の第6中隊長(少佐)にまでなったが、そのときには部下にあの安藤 輝三がおり、安藤に薫陶を与える立場にあった。

天皇の戦争責任に反論す-28
安藤は事件後、銃殺されるまさにその時まで秩父宮への尊敬を忘れず、処刑前夜の遺書の中には秩父宮への追慕の念を書き連ねて、処刑場で十五名の処刑された青年将校が、全員「天皇陛下万歳」を高唱し従容として死に就いたとき、彼だけが天皇陛下万歳に続いて「秩父宮殿下万歳」を叫んだといわれてる。(但し「秩父宮殿下万歳」を叫んだのは栗原安秀大尉という説もある。)

まぁ、いい、他人による噂話はもうこれ以上述べない。オイラが言いたいのは、唯一つ、

迪宮が秩父宮をどう見ていたのか、あの大東亜戦争と政治的に真正面から戦っていた人々の中に秩父宮は含まれていたのか、ということだ。

そしてその話を進めるに当たっては、皇后節子を語らなければ到底理解は難しいと思っている。
書き進めよう。

(前掲)
そんな中、秩父宮は何をしていたのか。


秩父宮は大正14(1925)年5月29日から2年間、歩兵第3連隊隊付将校(中尉)から渡英した。目的は欧州視察、この間オックスフォード大学モードリン校に入学している。

天皇の戦争責任に反論す-35
大正天皇の病状は、摂政裕仁の誕生に呼応する如く一段と悪化し・・・裕仁がめでたく婚儀を終えた頃から脳貧血の発作が増え、大正14(1925)年12月には強度の発作を起こし、以来皇居で静養することになった。体調不十分なまま大正15(1926)年8月に葉山へ転地療養したが、脳貧血発作は頻発し、風邪、気管支カタルを併発・・・

この脳貧血発作頻発は9月11日以降のことであり、11月12日以降は最早重篤の状態がずっと続いていたのであった。

「12月に入って(御上のご病状は)全ての皇族には伝えられていた。(私は)いつでも葉山に出られるよう着物ごしらえをしていた。」(「梨本宮伊都子 日記」)

ならば大正13年の出発前から父の病状については彼も十分周知していたことであろうし、英国においても逐一情報は伝わっていたことであろう。現に牧野は

「陛下のご病状が悪化しているにもかかわらず、秩父宮も東久邇宮(稔彦)も帰国の促しになかなかご帰朝遊ばされず・・・」(牧野日記)

とぼやいている。ちなみに東久邇宮は単身ルーマニアに滞在していた。

結局ふたりが帰国したのは年が明けた昭和2(1927)年1月になってからで、秩父宮は17日、東久邇宮は29日になってからであった。庶民の形で言えば、死に目に会えなかっただけでなく、殯宮(もがりのみや)移御の儀も、殯宮二〇日祭も、東久邇宮は三〇日祭にも間に合わなかったのである。

いくら船旅の時代だからといって、いや、船旅だからこそ、十分な余裕を取るべきなんだろうが・・・ま、東久邇宮はもともと助平野郎だったからこの際どうでもいいが、実父の死に対する秩父宮の態度はなんなんだ、どうすんだ、えーっ?(非難)・・・いかん、また私憤が先に立ってしまった・・・

そして、この秩父宮の不行跡に対して、皇后節子は何も異を唱えていない、それどころか後述するが、迪宮にとって不愉快極まる事実がやがて明らかになるのである。(今こう書いていても腹が立ってくる・・・)

(続く)

漢字を多用し、頭が痛いが、ことは「昭和天皇の思想的バックボーン」の話である、ここをいい加減にして進むわけには行かない。我慢して先を続ける。

裕仁皇太子は大正3(1914)年4月に学習院初等科を卒業し、続いて五人のご学友とともに出来たばかりの東宮御(お)学問所に入学した。学習院中等科を中退して個人教育に切り替えたことで、精神的な孤独感や情操面の欠如がもたらされた、とする大正天皇の教訓を考慮してのことであった。

この御学問所で皇太子に大きな影響を与えた、と言われるのが倫理担当の杉浦 重剛(しげたけ)、国史担当の白鳥 庫吉(くらきち)であった。

杉浦は講義の方針としてまず「三種の神器に則り、皇道を体し給うべきこと」を挙げた。
「三種の神器」を重視するのは杉浦の師、乃木 希典からの遺訓であり、乃木は山鹿素行の中朝事実を思想的裏づけとしていた。
なお、オイラは「三種の神器」の真贋論争に口を挟むつもりはない。

ちなみに当時学習院院長であった乃木に初等科の裕仁は可愛がられており、また、次のような事が伝えられている。

「乃木は殉死の2日前の大正元年9月11日、午前7時に参内して皇太子と淳宮、光宮の3人がそろうのを待って、人払いをした。そして、ふろしき包みから『中朝事実』を取り出し、誠心誠意の講義を行った。」(『殉死』司馬 遼太郎)

乃木の遺訓もさることながら、杉浦には4年前におきた南北朝正閏(せいじゅん)論争(※)が強く念頭にあった。

(※) 南北朝正閏(せいじゅん)論争

「明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであって、最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和談)ことまでを否定するものではなく、従って現在の北朝の天皇の正当性を否定するものはない。」(Wikipedia)

昭和10(1935)年3月29日の本庄 繁(後の侍従武官長)の日記には

「自分の如きも北朝の血を引けるものにて・・・」

「御血統は南北何れにしても同一にして、只皇統は三種の神器を受け継がれたる処を正しとす、すなわち北朝の天子が南朝の天子より神器を引嗣がれたる後は、この方を正統とせざるべからず。」(湯浅 倉平 当時宮内大臣)

のやりとりが書き留められている。

かくして南朝正統論が確立した明治44(1911)年以降、「三種の神器」は「万世一系の皇統」を担保する神聖なものとなった。杉浦の教育を通じて、明治天皇はもちろん大正天皇が(当時の貞明皇后も)恐らく持ち合わせていなかった「三種の神器が万世一系の皇統を担保する」という意識を、裕仁皇太子は徐々に抱くようになったと思われる。

そうなれば「三種の神器(の二つ)」が安置されている賢所あるいは宮中三殿全体が、伊勢神宮や熱田神宮同様「聖なる空間」となり、そこで執り行われる祭祀はもはや「創られた伝統」ではない、という意識が芽生えていくのは自然の成り行きであろう。

さらに、東宮御学問所で皇太子に大きな影響を与えたと思われるもう一人の人物が、前述の国史を担当した白鳥である。

(続く)

(訂正)前エントリーで

「一方、大正天皇は旅行好きで東京にじっとしているのを好まなかった。明治天皇が死去してからも、祭祀よりも私的な休暇を優先させており」

と書いたが、別な史料を読んでいたら

「嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)は、生後三週間足らずのうちに髄膜炎と百日咳を患い、十五歳の時に不全チフスに罹り、一時は侍医も匙を投げるほど、その一生は病気との闘いであった。学習院を中退させ、個人授業に切り替え、冷水浴や馬術など心身の鍛錬にも気を配ったが、インフルエンザや蕁麻疹など、学習はしばしば中断した。中断の遅れを取り戻すために、詰め込み教育が繰り返されるという悪循環であった。」(「梨本宮妃伊都子 自伝」)

とある。この頃、東宮輔導(教育係)となった有栖川宮威仁(たけひと)は、地方巡啓により嘉仁の健康と教育を管理しようとしたことから、好きで旅行していたわけではなかった。

ただ、明治天皇が死去してから旅行(巡啓)は控えたが、裕仁皇太子が洋行中の時期を除いて、祭祀の有無に関わらず、もっぱら葉山や日光田母沢の御用邸で過ごしている。

この部分のみ訂正する。